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RAWHIDE
IN JAPAN 1962


ローハイド主演トリオの来日を伝える新聞・雑誌記事

1962年(昭和37年)2月21日、エリック・フレミング、クリント・イーストウッド、ポール・ブラインガーの「ローハイド」主演三人組が番組スポンサーの寿屋(現・サントリー)と放送局のNET(現・テレビ朝日)の招きによって初来日を果たしました。当時、日本ではローハイド人気が絶頂の頃で、三人は番組のキャンペーンと観光を兼ねて東京・箱根・大阪・京都・奈良と日本各地を回りましたが、番組の人気ぶりを示すように、どこへ行っても三人の周囲は黒山の人だかり。行く先々で大変な目にあったようです。ここでは、その凄まじい人気ぶりが窺い知れる当時の新聞・雑誌記事を集めてみました。残念ながらピートを演じたシェブ・ウーリーは、この来日メンバーには入っていません。タイミング悪く、この少し前に番組を降板していたので、このメンバーからは外されたのかもしれません。シェブ・ウーリーは、かつて取材に訪れた日本の記者に対し、『日本のファンは子供と大人のどちらが多いのだろうか?学生も見ているのか?僕は日本のレディにはもててないですか?』と逆取材するなど日本のファンに興味を示し、本人も日本行きを望んでいた様子です。「ローハイド」の劇中でフェイバーさんやロディに比べて損な役割を担わされる事の多いピートとシェブ・ウーリーの姿がなんだかダブるようです。

滞在記録 1962(昭和37)年2月21日(水)~3月3日(土)
来日前のコメント集 E・フレミング、C・イーストウッド他
1962年1月27日  毎日新聞 朝刊記事 来日決定を伝える記事
1962年2月22日  新聞名不明 記事 フェーバー隊長ら来日 出迎え七千にビックリ
1962年2月22日  朝日新聞 朝刊記事 ローハイド一行の来日 ついに花束贈呈も中止
1962年2月22日  毎日新聞 朝刊記事 ローハイドの三人が来日 羽田にファン七千人
1962年2月22日  読売新聞 朝刊記事 「いずみ」欄より
1962年3月15日号 週刊平凡 本文記事 「表紙はしゃべる(ザ・ピーナッツと)」
1962年3月7日号 週刊平凡 グラフ記事 やってきた「ローハイド」のスターたち
1962年3月5日号 週刊女性自身 グラフ記事 ねむい東京の朝
1962年2月26日  読売新聞 夕刊記事 テレビ欄「お顔拝借」より
1962年2月23日  毎日新聞 夕刊記事 びっくりした大歓迎 会ってお礼が言いたい
1962年2月23日  読売新聞 朝刊記事 想像以上の人気だ ローハイド一行が語る
1962年3月7日号 週刊平凡 本文記事 ローハイド・スターの意外なサービス行状記
1962年3月10日号 週刊平凡 本文記事 特別座談会「ローハイド」撮影楽屋ウラ話
1962年3月10日号 週刊平凡 グラフ記事 ごきげん/ウィッシュボンさん
1962年3月11日号 サンデー毎日 本文記事 ローハイド「東京籠城記」牛より怖いファンの暴走
1962年5月号   映画の友 本文記事 今月のスター・「ローハイド」の3人男
1962年3月18日号 週刊明星 グラフ記事 楽しい日本旅行 ローハイドのカウボーイトリオ
1962年3月18日号 週刊明星 本文記事 ローハイド ニッポンの10日間
1962年3月10日号 週刊平凡 グラフ記事 「ローハイド」箱根越え
来日7日目(大阪2日目) 寿屋の山崎製樽工場を見学
1962年3月25日号 週刊明星 グラフ記事 ローハイド 楽しい日本旅行
1962年5月号   スクリーン 本文記事 西部から来た三人の紳士たち、その素顔を探る
1962年3月15日号 週刊平凡 本文記事 ローハイドトリオと一少女ファン
1962年3月14日号 週刊女性 本文記事 盲目の少女とローハイドスターの喜び
1962年3月4日  毎日新聞 朝刊記事 ローハイドの三人 帰米
1962年3月12日号 週刊女性自身 グラフ記事 真心をお土産に ローハイドを追った十日間
1962年3月25日号 週刊明星 グラフ記事 名ごりおしい東京
Youtube動画 「ローハイド」主役3人の来日映像(1分35秒)
余談:帰国直後のブラインガー 同年3月に恋人と交際開始→12月に結婚
おまけ:ロケ地で「ローハイド」祭り ロディ、ウィッシュボーン、ピートの子供たち
 
滞在記録・1962(昭和37)年2月21日(水)~3月3日(土)
 2月21日(水) エリック・フレミング(36)、クリント・イーストウッド(31)、ポール・ブラインガー(44)が午後6時50分、パン・アメリカン機で羽田空港に到着、カウボーイ姿で空港へ降り立つ。空港へ出迎えに集まったファンは約7千人。空港署員や第3・第5機動隊など約160人の警官が出動、ファンの整理にあたるも羽田空港始まって以来の騒ぎとなる。3人は出迎えた声優の小林修(27)、山田康雄(29)、永井一郎(30)と『WELCOME “RAWHIDE” STARS』の横断幕を前に空港内で一緒に記念撮影。混乱を避けるため、主催者側は予定されていた空港内での花束贈呈や記者会見を中止。
約2時間後、3人は税関下の通路から警官隊に守られて羽田空港を脱出。車の前後をパトカーで護衛されながら宿舎である皇居前のパレスホテルへ到着後、カウボーイ姿のまま記者会見。ホテル内でザ・ピーナッツ(伊藤エミ(20)、伊藤ユミ(20))と共に「週刊平凡」の表紙を撮影。深夜2時頃まで各マスコミからの取材が続く。3人は皇居のお堀(和田倉濠)に面した南側の8階の個室にそれぞれ宿泊。
 2月22日(木) 【2日目】朝7時前に起床。パレスホテルの屋上で西側にある皇居を眺めながら3人揃って瓶牛乳を飲む。
警視庁の申し入れにより、午後に予定されていた都内パレードは混乱を避けるため中止。午前中は寿屋東京支社(翌年3月にサントリーへ社名変更。当時の東京支社は千代田区大手町2丁目の新大手町ビル3階)と港区六本木にあったNET(現・テレビ朝日)を訪問。 午後2時よりパレスホテル内のチェリールームで小林修・山田康雄・永井一郎らも同席しての記者会見。フレミングと個人的に親交のある小桜葉子(43、上原謙夫人で加山雄三の母)から花束贈呈。ホテルの723号室で平凡出版の清水達夫編集局長(48)と女優の星由里子(18)から「週刊平凡・1961年度テレビスター人気投票第6位」に選ばれたフレミングへ日英両文で記された賞状と賞牌が贈られる。ローハイドファンだという女優の三田佳子(20)もホテルを訪問。フレミングとブラインガーが三田佳子の前で腕相撲を披露。夕方からは寿屋主催の歓迎レセプションに出席。終了後は番組スポンサー・寿屋の原専務と平井常務に連れられて、台東区柳橋2丁目1番6号にあった高級料亭「いな垣」(1999年に廃業)へ。柳橋芸者の三味線と踊りに3人は「ワンダフル」を連発し、天ぷら料理を堪能。
芸者衆に着物の着付けを手伝ってもらい、ちょんまげカツラをかぶり、刀を腰に差してサムライのコスプレも体験。その後は「世界的に有名な夜の銀座を見たい」という3人の要望を受け、寿屋の的場宣伝課長が銀座の高級バー「エスポワール」(注:川口松太郎(62)の小説で5年前に映画化された「夜の蝶」のモデルのひとり・川辺るみ子ママ(44)が経営する有名店※昭和50年代に閉店)へ3人を招待。たまたまバーに来た流しのギター弾きが3人を見つけてローハイドの主題歌を演奏。
 2月23日(金)
【3日目】午前11時、現在の神奈川県川崎市中原区今井上町13番地にあった寿屋の多摩川工場(2002年閉鎖)を訪問。朝早くから待機していたファン約300人から握手攻めとサイン攻めにあう。工場内サロンで乾杯後、大城工場長の案内で工場内を見学。昼食後、工場内の石庭で工員たちとサイン会をして歓談。
テレビ局で翌日の「ローハイド」内で放送予定のVTRを撮影。各マスコミからの取材などをこなす。(23日か24日?、寿屋に招待されて千代田区紀尾井町の高級料亭・福田屋で日本情緒を満喫。同じく23日か24日?、寿屋に招待されて現在の渋谷区松濤1丁目7番10号~15号あたりにあった料亭旅館「石亭」(1969年に廃業)で鍋料理を堪能。芸者の三味線を借りたブラインガーはその腕前を披露)
 2月24日(土) 【4日目】午前中はパレスホテル9階のサントリー美術館を見学。同じフロアにある茶室で「茶の湯」のもてなしを受ける。午後2時から3時半まで千代田区一ツ橋2丁目の神田共立講堂での「トリス・ローハイドショー」に出演。観客は超満員の約1300人。その7割は10代の女子中高生。神田署員70人と第5機動隊が出動し、整理に当たる。公演終了後、講堂裏の出口に”出待ち”のファン500人が殺到。1時間後、楽屋にカンヅメにされていた3人はファンの裏をかき、正門入口に車がつけられたと同時に講堂から飛び出して車に乗って脱出、パレスホテルへ。夜は文京区関口2丁目の椿山荘(ちんざんそう)でNET主催の歓迎レセプションに出席。夜10時より放送された「ローハイド・第85話(※日本放映順)『荒野の墓標』(日本ではこの日より第4シーズンの放映がスタート)」の中で、日本のファンへ来日の挨拶をする3人のVTRが流された。
 2月25日(日) 【5日目】午前10時半、パレスホテルを発ち、それぞれ3台の車に分乗して箱根へ向かう。午後3時頃、神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300-347の温泉宿「強羅 環翠楼」(ごうら・かんすいろう)に到着。3人が泊まるのは環翠楼の離れ貴賓室「錦華亭」。昼食後に宿の近所(徒歩3分)にある強羅駅から箱根登山ケーブルカーに乗り、早雲山駅を経由して箱根ロープウェイで芦ノ湖へ。
 
芦ノ湖ではイーストウッドがフレミングとブラインガーを乗せてモーターボートを運転。ボートを桃源台港の岸につけるためフレミングが冷たい湖に平気で飛び込み、膝まで水に浸かってボートを押すハプニングも。湖畔の仙石原・後楽園ロッジではファンに囲まれながらアイススケートを楽しみ、売店の玉子うどんを食べた後に環翠楼へ戻る。
夜は雪の降る中、俳優の加山雄三(24)とその母・小桜葉子が環翠楼を訪問、風呂上がりで丹前を着込んだ3人と部屋で一緒に刺身とスキヤキ鍋を囲んでの食事。加山がギターを手にローハイドの主題歌やウエスタンソングを歌い、イーストウッドも加山のギターを借りて演奏。
 2月26日(月) 【6日目】午前中、熱海駅から特急「第一富士」に乗り大阪駅へ向かう(3人が乗ったのはデラックスシートの展望車両)。3人は進行方向左側の一人掛けの席に前からブラインガー、イーストウッド、フレミングの順番に座り、雑誌を読んだり車窓からの眺めを楽しんだりして過ごす。曇り空のため車窓からは富士山が見えず、ブラインガーはガッカリ。
列車が架線事故の影響で1時間半ほど遅れ、午後4時頃に大阪駅に到着。当初、駅に集まった出迎えのファンの数は女子中高生ら約300人だったが、野次馬が徐々に集まり、到着時には駅の西出口で約4~5千人、最終的には約1万人の群集が集まり、大阪駅付近が大渋滞。1時間ほど列車内にカンヅメにされた後、駅のホームから警官隊に囲まれたまま移動しながら3人は群衆の歓声に笑顔で手を振って応え、大阪駅を200人の警官に守られて脱出。パレードは混乱を危惧した大阪府警の申し入れにより中止。
大阪市北区中之島2丁目3番18号にあった新朝日ビル(2009年解体)7階の寿屋本社を訪問後、同じビルの中にある宿泊先の大阪グランドホテル(1997年にリーガグランドホテルに名称変更、2008年閉館)で記者会見。午後6時半から大阪市北区中之島3丁目の新大阪ホテル(大阪グランドホテルと同じ旧ロイヤルホテル系列:1973年閉館)での歓迎レセプションに出席。
フレミングは模擬店のタコ焼きを食べ、初めての味に最初は微妙な表情をするも「慣れれば結構いただけますよ」。
イーストウッドは着物姿の日本人女性とチークダンスを踊る。
 2月27日(火) 【7日目】午前9時半、大阪グランドホテルを出発。兵庫県宝塚市雲雀丘4丁目の雲雀丘(ひばりがおか)学園小学校(一週間前に死去した寿屋の創業者・鳥居信治郎が初代理事長の学園)を訪問。フレミングは小学生たちの玉入れ合戦に飛び入り参加。 その後は大阪府三島郡島本町山崎5丁目2番1号にある寿屋の山崎製樽工場(現・サントリー山崎蒸溜所)を見学し、大阪府吹田市千里丘北1番地にあったMBS毎日放送のスタジオ(2007年閉鎖)を訪問、日本刀をプレゼントされる。
その後、車で京都市内へ移動して車中から平安神宮を眺め、夜は京都市東山区粟田口華頂町1番地の都(みやこ)ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)に宿泊。
 2月28日(水)
【8日目】午前10時、都ホテルを出て京都市内を観光。二条城銀閣寺、織宝苑(2009年より「流響院」に名称変更)、桂離宮などを見学。行く先々でファンに囲まれる。その後、貸切の観光バスに乗って午後4時頃に奈良に到着。東大寺の大仏殿を見学し、夜は奈良市高畑町の奈良ホテルに宿泊。夜、ブラインガーは一人だけホテルを抜け出して金春流家元の長男・日光氏から能の手ほどきを受ける。

 3月1日(木)
【9日目】午前中から奈良観光。「飛火野の鹿よせ」を楽しみ、約3千人のファンに囲まれながら東大寺二月堂・東大寺鐘つき堂興福寺の五重塔春日大社などを見学。
生駒山の阪奈射撃クラブの射撃場ではクレーン射撃をするが全員が的を外すも射撃クラブから感謝状が授与され、名誉会員の称号を贈られる。
その後、大阪へ移動し、伊丹空港から飛行機で東京・羽田空港へ。機内では追っかけファンの女子中学生(15)が千羽鶴をそれぞれ3人にプレゼント。夜は文京区の椿山荘でテレビ局主催のお別れパーティーに出席。3人のテーブルには大川博(65、NETテレビと東映の社長でプロ野球東映フライヤーズのオーナー)や女優の佐久間良子(23)・久保菜穂子(29)らが同席。ジンギスカン料理などを食す。ファンの盲目の少女(18)から日本人形をプレゼントされる。再びパレスホテルに宿泊。
 3月2日(金) 【10日目】当初はこの日の夜に帰国予定も1日延長。それぞれ休息や買い物などをして過ごす。
 3月3日(土) 【11日目】ブラインガーは17代目中村勘三郎(52)の歌舞伎見物に出かける。終演後に勘三郎の楽屋を訪問、その場に居合わせた当時6歳の5代目中村勘九郎少年(18代目中村勘三郎)と対面。夜、雨の降りしきる中、午後11時59分羽田空港発のパン・アメリカン機で帰国。帰国便の急な日程変更と深夜の出発、雨などの影響で見送りのファンは約50人。この日の夜10時からの「ローハイド」は第86話(注※日本放映順)『さまよえる種族』を放送。

来日前のコメント集(E・フレミング、C・イーストウッド、プロデューサー)
◆エリック・フレミング
「日本人は親切な国民だという印象を持っています。ファンレターにそれがよく出ています。真心のある人々だと思っています。日本へ行ったら、日本の各地をめぐって、伝統的な歴史を持っている日本の文化・美術・工芸、そういったような物をじっくり見てきたいね。それがどれほどうまく自分に吸収できるかはわからないが。特に日本の伝統的な物に対しては、僕自身、もっともっと勉強したいと思っている」

◆クリント・イーストウッド
「日本では僕が日本語を話しているそうだね。僕の声はセクシーだと言われてるんだが、アテレコで残念だ。その声優たちに会いたいな。僕の所へ来るファンレターというのは、子供か10代が一番多いようです。今まで一番嬉しかったのは、ある少女ファンが日本髪を結った日本人形を贈ってくれたんだ。あの人形のような日本の古い風俗、習慣という物を早く日本へ行って見てみたい」

◆エンダー・ボーム(2代目プロデューサー)
「フェイバーもロディ、ウイッシュボーン、そしてピート他、全員が日本に行く事を望んでいる。私も日本に行って日本のたくさんの人に会って日本を知りたい」
 
昭和37年(1962年)1月27日 毎日新聞朝刊 ※来日決定を伝える記事
「ローハイド」の主役三人が来日 ファンにあいさつ
  NETテレビの人気番組「ローハイド」の主役3人が来月21日来日する。一行3人は責任者ギル・フェイバー役のエリック・フレミング(34)、二枚目役でロディ・イェーツ役のクリント・イーストウッド(31)、料理人ウイッシュボン役のポール・ブラインガー(42)。

 21日夜6時50分、羽田着のパン・アメリカン機で来日、翌日都内パレードを行い、大阪の毎日放送や京都、奈良を見物、3月2日帰国するが、24日ごろ東京で慈善ショーも考えている。

「ローハイド」は昭和34年11月NETテレビと毎日放送で放送を開始したテレビ界初めての西部劇1時間番組で、3千頭の牛をテキサスから1千キロ離れたセデリアまで運ぶカウボーイの苦悶を広大な西部の原野を背景に描いたもの。ディミトリ・ティオムキン作曲、フランキー・レーンの歌う主題歌は日本でもテレビ映画主題歌随一の人気で、すでに15万枚も売れているという。
 
昭和37年(1962年)2月22日 新聞名不明の記事
NET「ローハイド」の"フェーバー隊長"ら来日
出迎え七千にビックリ

カウ・ボーイが空から来た

 
昭和37年(1962年)2月22日 朝日新聞朝刊
羽田「空前の騒ぎ」 ローハイド一行の来日
ついに花束贈呈も中止

(画像は「週刊朝日」1962年3月9日号より)

 NETテレビ「ローハイド」の主役エリック・フレミングをはじめ、クリント・イーストウッド、ポール・ブリネガーの3人は21日午後6時50分、東京・羽田着のパン・アメリカン機で来日した。この日、空港には「フェイバー隊長」や「ロディ」が来るというので、4時ごろにはすでに数百人のファンがつめかけ、一行が着いた時はロビーやフィンガーは約七千人(警視庁調べ)の群集でごった返し、空港署の話だと「空港始まって以来の騒ぎ」になった。

 カウボーイ姿で現われた一行は手をふってファンに愛敬をふりまいたが、あまりの熱狂ぶりにちょっととまどった様子。初めの予定では、フィンガーの前に特設した舞台で、女優さんが花束を贈呈したりするはずだったが、舞台の回りは殺到するファンで大変な騒ぎ。とても花束贈呈どころではなくなった。応援の機動隊員ら150人の警察官が舞台の回りにスクラムを組み、押しつぶされそうになる小中学生や女性ファンから「助けて」「つぶされる」と悲鳴が飛び、機転をきかした警官が携帯マイクで「すでに数十人の負傷者が出ています。押さないで下さい」と「脅し」までかける始末。花束贈呈を強行すれば本当にケガ人が出る、と判断した主催者側は群集をすっぽかし、空港での記者会見も中止して、3人はこっそり税関下の通路から逃げるように宿舎のパレスホテルに入った。
(画像は「週刊朝日」1962年3月9日号より:3人の人気者に接触できたのは、長時間ホテルの前で待っていた数十人のファンだけだった。到着と同時に、幸運な少年少女はものすごい歓声をあげてかけ寄った)

 この結果、警視庁の中入れもあってNETと寿屋(※現・サントリー)の主催者側は同夜十時半、きょう22日に予定されていた都内パレードの中止を決定した。滞在中のスケジュールから群集と接触するものは全部けずることになるだろうという。なお一行は約十日間滞在する。
 
昭和37年(1962年)2月22日 毎日新聞朝刊
ローハイドの三人が来日 羽田にファン七千人

 テレビの人気番組「ローハイド」3人の主人公、エリック・フレミング、クリント・イーストウッド、ポール・ブラインガーが21日、午後6時50分、羽田着のパン・アメリカン機で来日した。空港には昼過ぎから熱心な子供ファンなど七千人がつめかけた。おなじみのウエスタン・スタイルでタラップに現われた3人が帽子を振って「フレー」と声をあげると、子供たちは大変な騒ぎ。
(「週刊読売」1962年3月11日号より。羽田空港に詰めかけた7000人の群衆)

一行は約十日間滞在の予定だが、観光査証で来日したため、滞在中はテレビなどに出演すると査証内容に触れる恐れがあるので、同空港出入国管理事務所で口頭審理を行い、一応仮上陸の形で入国させた。

(「映画ストーリー」1962年5月号より。羽田空港の税関に向かうイーストウッドと税関を出るフレミング)
 
昭和37年(1962年)2月22日 読売新聞朝刊「いずみ」欄より
 テレビでおなじみの「ローハイド」のスター3人が観光をかね、21日午後6時50分、羽田着で来日した。リーダー格、フェイバーことエリック・フレミング、二枚目役のロディことクリント・イーストウッド、がんこながら料理上手なウイッシュボン老ことポール・ブリネガーの3人。(左の画像は「週刊明星」1962年3月18日号より)

 ガン・ベルト、皮チョッキのカウボーイ姿もさっそうと3人がタラップに現われるとハイティーン中心の約4500人(空港署調べ)のファンがワアワア、キャーキャー。熱狂的な大歓迎に3人は帽子をふって大はしゃぎ。

 しかし160人の警官ではとても整理しきれないと、花束贈呈もとりやめ、三人は護衛つきでコッソリ宿舎のパレスホテルへ。ここでの記者会見も大混乱、きょう22日の都内パレードは「交通事故が起きたら」という三人の意見を入れて中止。一行は東京、大阪で慈善ショーに出演、3月2日帰国する。
 
週刊平凡 昭和37年(1962年)3月15日号 「表紙はしゃべる」より

週刊平凡(昭和37年3月15日号)の表紙。ザ・ピーナッツ(伊藤エミ・伊藤ユミ)と。

伊藤エミ「(遠くから)うわー、フェイバーさんって、すごいノッポ。ステキねえー」
伊藤ユミ「(ウットリと)ウイッシュボンさんもロディもいる」
ウイッシュボン「(ザ・ピーナッツを見て)これは・・・。幸運が舞いこんできたぜ」
フェイバー「(感嘆の表情で、ゆっくりと強いアクセントで)ラブリー・ツインズ!(可愛い双生児)」
ロディ「なるほど・・・。日本には人間が多いわけだ。同じ人が二人づついるのか(笑)」
通訳がピーナッツを紹介する
フェイバー「(かがみこんで握手しながら)歌手?童謡の?」
伊藤エミ「(ユミに)ね!やっぱり」
伊藤ユミ「ホント。ウフ・・・」
フェイバー「あなたたちがしゃべると、まるで小鳥が歌っているようだ(笑)」
伊藤エミ「私たち、みなさんにきっと子供だと思われるって話してきたんです(笑)」
伊藤ユミ「みなさんが考えてるよりは大人ですよ(笑)」
ウイッシュボン「それじゃ、私は幾つに見えますか?」
伊藤エミ「そうですねー。(ユミとひそひそ相談)60にはなりませんね」
ウイッシュボン「やっぱりダメか(笑)。日本ではいくらか救われると思って来たのに・・・」
伊藤ユミ「もっとお若いんですか。(申し訳なさそうな顔)」
ロディ「42歳。独身青年ですよ(笑)」
伊藤エミ「まあ・・・」
伊藤ユミ「60でもそうとうオマケして言ったのに(笑)」
ウイッシュボン「(ヒゲをしごいて)こいつのせいだ(笑)」
フェイバー「みんなこんなきたない服を着ているからで、パリッとすればなかなか二枚目ですよ(笑)」
伊藤エミ「きたなくないわ」
伊藤ユミ「テレビで見てると牛くさいみたいだけどね(笑)」
フェイバー「撮影中はほんとに牛くさくなります」
ウイッシュボン「日本に来るので、みんないっしょうけんめい、洗ってきたんですよ(笑)」

 
 
 
週刊平凡 昭和37年(1962年) 3月7日号 グラフ記事

やってきた『ローハイド』のスターたち

 2月21日夜、NETテレビ映画『ローハイド』の人気三人男がスポンサー寿屋の招待で日本へやってきた。
「こんなに歓迎をうけるなんてユメにも思いませんでした」とびっくりした表情の西部の人気者たち。羽田空港には約八千人のファンが押しかけたため、警視庁の申し入れで花束贈呈、記者会見、パレードなど、予定されていた歓迎行事も中止。負傷者もでるさわぎだった。左からロディ・エイツことクリント・イーストウッド、ギル・フェイバーことエリック・フレミング、ウイッシュボンことポール・ブラインガー。パレスホテルで。

「こんなに嬉しいことは初めてです。今夜の授賞式に出席できただけでも日本へ来た甲斐があります。どうか、『週刊平凡』を通じて、全国のファンのみなさまにくれぐれもよろしくお伝え下さい」
 週刊平凡主催1961年度テレビスター人気投票で第6位に入賞したフレミングは、賞状ならびに賞牌を平凡出版清水編集局長(※のちの平凡出版社長・マガジンハウス会長の清水達夫[1913-1992])から受け取って大喜び――。授賞式にかけつけた星由里子をはじめロディやウイッシュボンからの祝杯に「サンキュー、サンキュー」を連発していた。
 
週刊女性自身 昭和37年(1962年)3月5日号 グラフ記事
ねむい東京の朝
本誌特写・ローハイド一行 来日第一報!
(写真キャプション:ねむい目をこすりながらホテルの屋上に。
朝もやにかすむ皇居のお堀には白鳥が!)
はじめての朝

◆パレスホテル・客室係 吉野元子さんの話
「今朝(22日)は7時にはもう起きてました。昨夜は2時頃まで報道関係の人が追いまわしてたんですよ。それに、アメリカをたってから、24時間も寝てなかったんですって?ずいぶんタフなんですね。でも、すごく大きいのに、お食事は意外とすくないんです。今朝はオレンジとオムレツとパンだけでした」

◆パレスホテル・客室係 山本澄子さんの話
「みなさんのお部屋は、8階で、皇居のお堀に面しています。着がえのユカタは、すごく気に入ったらしく、ベッドの上ではしゃいでいました。ベッドっていえば、あ、そうそう!フェイバーさん、お部屋に落ち着くとすぐ、手紙書いてましたよ。誰に出すんでしょうね?」
(写真キャプション:配達の少年から牛乳を!「外で飲むのがいちばんうまい・・・」。こんなところに西部男のたくましさが。) 

◆フェイバーのロディ評
「彼は、帽子をぬぐと5センチは背が伸びるよ。3ヶ月も床屋に行かないんだ。愛妻家の彼なのに、これだけは、言うことを聞かないんだね」

◆ロディのウイッシュボン評
「映画の中じゃ料理がうまいことになってるが、本当に食わしてもらったことはないんだ。コーヒーぐらいしか入れられないんじゃないかと思うんだ」

◆ウイッシュボンのフェイバー評
「いいかげんに嫁をもらえばいいのに」

「僕は1日にミルクを1リットル飲む。ポパイじゃないが、これがエネルギー源なんだ(ロディ)」
「ワシの趣味?水泳。海辺で女の子を眺められるからな。ワッハッハ(ウイッシュボン)」
「私をフェイバーと呼んで下さい。それが一番うれしいんです(フェイバー)」

パレスホテルについて

左画像は南東方向から見た旧パレスホテル。目の前のお堀は和田倉濠。画像奥の緑地とホテルの間には内堀通りと桔梗濠が左右(南北)に平行して走り、緑地の奥に皇居がある。パレスホテル社長の妻と寿屋創業者の長男の妻が姉妹なのでローハイド一行が泊まったのはこの関係か。ホテルは一行が来日する前年の1961年10月に千代田区丸の内1丁目に開業、2009年に老朽化による建て替え工事のため休館し、一行が宿泊した当時の地上10階建てから右画像の23階へ建て替えられて2012年から「パレスホテル東京」として営業再開。高さも約2.5倍に。

和田倉門交差点から見た北西方向にある2000年代の新旧パレスホテル比較画像。左画像が建て替え前の旧館、右画像が建て替え後の新館。手前の橋は和田倉橋。旧館画像の画面向かって右隣のAIGビルも2011年に解体され、2014年に日本生命丸の内ガーデンタワーが建った。

江戸城の桜田巽櫓(桜田二重櫓)の前から見る新旧パレスホテル。
『その平穏なパレスホテルに、ある日、大混乱を引き起こす出来事が起きた。アメリカの人気テレビドラマ「ローハイド」の出演者一行が滞在したのである。ホテルは取材陣とファンの人波で大騒動となった。それ以来、パレスホテルは芸能人の受け入れを控えるようになった。「この事件をきっかけにして「静かなホテルを目指そう」ということが社是のようになりましたね」と岡田(注※株式会社パレスホテル取締役施設部長・岡田光郷)は述懐する。』(「ホテルの社会史(富田昭次・著/青弓社/2006年刊)」より)
 
昭和37年(1962年)2月26日 読売新聞夕刊 テレビ欄「お顔拝借」
 おなじみ「ローハイド」の3人。実物を見ての感じはフレミングはとても34歳には見えない老成した感じ(注※実際はこの時は36歳)。イーストウッドは31歳にはとても見えない初々しい青年。そしてブリネガー自慢のヒゲはほとんど白く実際の年齢42に20ぐらい足したら丁度ピッタリというところ。1週6日間、1日14時間をばっちり仕事でつきあっているせいか、すごく呼吸があっている。お互いに話の合い間に半畳をいれるが、それでもちゃんと節度は心得ている紳士である。

(画像は別雑誌より来日翌日のパレスホテル内・チェリールームでの記者会見)

◆Q:なぜ、あなた方がこれほど日本で人気があると思いますか?
フレミング「ロバート・フラー(※注1)や、ジョン・ブロムフィールド(※注2)から聞いていたが、これほどとは・・・。ローハイドの場合は、われわれ役者より魅力のある牛や馬が出てるからだと思っていたのだが」

◆Q:ガンハンドリング(拳銃の扱い方)は誰が一番上手ですか?
フレミング「私は遅いが正確。イーストウッドは速いけど不正確。ただしオモチャみたいにあやつるのは彼の方が得意だ」
イーストウッドは何か言いたくて口をモグモグ。ブリネガーはニヤニヤ笑っている。

◆Q:ブリネガーさんのクッキングの腕前は?
フレミング、イーストウッドの二人がとてもじゃないという表情で、妙な声を出してブリネガーの顔を見る。
ブリネガー「本当のことを言うと、私は電気パーコレーターがないとコーヒーも作れないんだ」

◆Q:日本で行きたい所は?
イーストウッド「京都に行ってお寺や仏像を見たい」
この発言にフレミングはうなずくが、ブリネガーは「どこへ行ったらいいか教えてもらいたいね、わしは」とわざと反対する。

◆Q:フレミングさんはなぜ独身を通すのか?
フレミング「さあ、私は多分、馬の方が好きだからじゃないか」と逃げると、ブリネガーは手を上げ、「フレミングさんは今日からでも素敵な日本女性を探すって言ってたじゃないか」とからかう。
仲のいいカウボーイ三人である。

※注1:ロバート・フラー=TV西部劇「ララミー牧場」のジェス・ハーパー役。前年の1961年に2度来日。
※注2:ジョン・ブロムフィールド=TV西部劇「モーガン警部」の主役。同じく前年の1961年に来日。
 
昭和37年(1962年)2月23日 毎日新聞夕刊
ローハイド一行が「こんにちは」
びっくりした大歓迎 会ってお礼が言いたい


 21日夜、空港始まって以来という大歓迎を受けて羽田に着いたテレビ映画「ローハイド」の一行三人は、22日午後2時から皇居前のパレスホテルで記者会見をおこなった。羽田に着いた時はおなじみの西部劇スタイルだったが、この日は三人とも背広姿。リーダーのギル・フェイバー役エリック・フレミング(34)は黒の上着にブルーのデニムのシャツとズボンという、いかにも飾らないこの人の性格丸出しのスタイル。助手ロディ・イェーツ役のクリント・イーストウッド(31)は二枚目らしくダークグリーンの服に白のシャツで黒いタイ。世話役ウイッシュボーン役のポール・ブリネガー(42)は黒っぽい上着にウエスタン・タイといったくだけた格好。

(画像は別雑誌より来日翌日のパレスホテル内・チェリールームでの記者会見。左から山田康雄、イーストウッド、永井一郎、ブラインガー、小林修、フレミング)

 まず挨拶に立ったフレミングはかたわらの声のタレント小林修さんと握手しながら「日本語で挨拶したいが小林さんが上手なので任せます。米国での長い生活の間よりも、今日はずっと写真を撮られた。ドウモアリガト」と挨拶。続いて立ったブリネガーは声の役者・永井一郎さんを抱いたまま口をパクパクさせただけで座ってしまい、どっと爆笑がおこった。イーストウッドは羽田での大歓迎にすっかり感激して滞在中にぜひあの人たちに会ってお礼を言いたいと語っていた。続いて一問一答に入った。

フレミング=毎日何百通もの手紙が来るのでファンがいることは知っていたが、大歓迎を受けてびっくりしている。皇居も訪れたいし、テニスをやるので皇太子の物語に出るテニスコートも見たいが時間がない。私が独身でいるのは馬が非常に好きだからだ。本当のカウボーイのように。しかしローハイドが始まるまで十年間、地下鉄に乗っていた(ブロードウェイに出演)ので、馬に乗り始めの頃はお尻に大きなタコが二つも出来てしまった。

イーストウッド=ロバート・フラーから話は聞いてたので、私たちも大歓迎を受けるかなと考えてはいた。美しい京都はぜひ見たい。

ブリネガー=このヒゲは五年前、「ローハイド」と「ワイアット・アープ」に出演のため伸ばした。料理はコーヒーを入れるのも電気パーコレーターがないと作れない。しかし日本料理ではサシミ、天ぷらがおいしいから食べたい。

 三人は24日午後2時から神田共立講堂で開かれる東京五輪基金集「ローハイド・ショー」に出演、同日のNETテレビ「ローハイド」(午後10:00)の中でファンに来日の挨拶をする。
 

(録画収録のため訪れたNETテレビのスタジオにて。上の画像は「映画ストーリー」1962年5月号、下は「スクリーン」1962年5月号より)
 
昭和37年(1962年)2月23日 読売新聞朝刊 テレビ欄
「想像以上の人気だ」 ローハイド一行が語る

 来日した「ローハイド」の一行、エリック・フレミング、クリント・イーストウッド、ポール・ブリネガーの3人は22日午後、宿舎のパレスホテルで記者会見を行い「日本での人気はものすごいということを聞いていたが、想像以上だった」と語り、フェイバー隊長のエリック・フレミングは「日本の女性は素晴らしいと聞いているので将来はぜひ結婚したい」と外交辞令を一席。
来日2日目:1962年2月22日、パレスホテルでの食事風景(掲載誌不明)
 
週刊平凡 昭和37年(1962年)3月7日号 本文記事
ローハイド・スターの意外なサービス行状記
フェイバー隊長、ウイッシュボン爺や、ロディー君たちがやって来た!!


 NETの最高人気番組『ローハイド』の3人のスターが、スポンサー“寿屋”の招待で来日した。さっそうたるカウボーイスタイルで羽田に降り立った3人を出迎えたファンは、ざっと8千人。機動隊、警官隊80名が出動、空港みやげ物店も全部シャッターをおろしたが、軽傷者が8人も出たという大騒ぎ。出迎えのファンたちに終始ニコニコとあいさつし、ぎっしり組まれたスケジュールにも、気軽に応じるという、この3人の紳士的な礼儀正しいサービスぶりにまた『ローハイド』のファンは倍増することだろう。

すっかりゴキゲンになった「ローハイド」スターたち

 まずこの3人を待ち構えていた第1番のプレゼントは、フェイバー君への受賞であった。
 パレスホテルの723号室で、『週刊平凡』の清水編集局長から、フェイバーに賞状と賞牌が贈られた。これは、昨年度の「テレビスター人気投票」で彼が第6位を獲得したからである。

「今度の来日は、日本のファンのかたへの挨拶や観光のためのものですが、今日のこの賞を受けることにも大きな期待を持っていました。私に投票して下さったファンのかたに厚く御礼を申し上げます」
とフェイバー君は大喜び。東宝の星由里子から賞牌を受けてゴキゲンな表情だった。

「フェイバーは実に幸せなやつだ。しかし、この賞は、われわれのチームワークなしにはもらえなかった。だから私もとても嬉しい」
とこれはウィッシュボンさん独特の喜びの言葉。
「今度は僕もきっともらってみせる」
 ロディ君も嬉しそうに賞状をのぞきこんでいた。『ローハイド』の大ファンである星由里子も、楽しそうに3人と握手した。
ここで、『ローハイド』の3人のスターたちの横顔をのぞいてみよう。

 冷酷なほど強い意志の持ち主であり、時にはニヒルな、時には優しい一行のリーダー、フェイバーことエリック・フレミングは、今年34歳の独身。彼はロサンゼルスで石炭はこびをやったり、戦時中、船員をしたりという豊富な経験の持ち主。旅芸人をしている時にブロードウェイにスカウトされた。その独特のニュアンスと個性で、高度な知識階級をも『ローハイド』のファンにしてしまったスターである。

 ロディことクリント・イーストウッドは『ローハイド』きっての二枚目、アメリカでもトップのテレビタレントである。31歳、愛妻マギーがある。『ローハイド』では行く先々で、女の子にイカれるハンサムなカウボーイの役。スポーツは万能だという。

 さて、次にユーモアにとんだウィッシュボンじいさんのポール・ブラインガーは、ハリウッドでも一流の性格俳優。42歳。『ローハイド』のチームワークをとりもつ名コメディアンである。

ブラインガーに寿屋のオールドウイスキー(サントリーオールド)をお酌する星由里子

流しの『ローハイド』に感激

 来日2日目の夜。昼間はファンや報道陣のためのサービスで追われ続けた『ローハイド』のスターたちのために、「せめて夜はゆっくりと、日本の情緒こまやかなところを味わってもらおう・・・」とスポンサーである寿屋の原専務、平井常務らの特別のはからいで、一行は柳橋の料亭『稲垣』へと招待された。

 柳橋一流のきれいどころが、ずらりと3人のスターを囲んで、あでやかな日本の踊りを見せ、三味の音を響かせる・・・。静かなお忍びの夜にふさわしく、夜の庭園を散歩する3人だった。

「日本の芸者さんのことは、ずっと前から聞いていました。いま目の前に美しい芸者さんを見ることが出来て、この上もなく感激しました」
と、フェイバー君はじめ3人は上機嫌。
「日本の女性は大変小さく、大変チャーミング」
とウィッシュボンさんも目を細める。
フェイバー君は、一行のただ一人の独身青年だが(注※誤り。P・ブラインガーも独身)、「こんなに花のように美しいチャーミングな日本女性と結婚できる日本の男性は、世界一、幸福です。私も日本の女性と結婚できたら最高に幸せだが、10日間の旅ではどうも・・・」
と微笑していた。

 しかし、この3人は、日本のたくさんのファンたちのイメージを壊したくないと、終始紳士的な礼儀正しい態度で酒もあまり飲まなかった。
芸妓を前にテンプラをつつきながら、3人は「ワンダフル」を連発。初めて日本のムードに心ゆくまで浸ったのだった。

「世界にも有名な夜の銀座を見たい・・・」
という3人の希望で、寿屋の的場宣伝課長は、銀座のバー『エスポワール』へと一行をともなって行く。銀座でも指折りの高級バー『エスポワール』でも、3人はゴキゲン。たまたま入って来た流しのギター弾きが、3人を見つけていきなり『ローハイド』の主題歌を弾いた。その懐かしい歌と暖かい好意に、3人はしみじみと感動を味わっていたようであった。

ユーモアとウイットを連発する記者会見

 おなじみの『ローハイド』の物語とはぐっと変わった現代的な好漢であるこの3人は、その言葉一つ一つにもなごやかな暖かい人柄をのぞかせる。
 宿舎のパレスホテル、チェリールームで行なわれた記者会見でもこの3人は人懐っこい微笑とともに、深みのある、しかもユーモラスな人間性を見せていた。
「ミナサン、コンニチワ!」
とフェイバー君は日本語であいさつ。
『WELCOME “RAWHIDE” STARS』と書かれた旗を嬉しそうに見上げながら、

フェイバー「こんな歓迎をしていただき、こんなにたくさんの方たちが『ローハイド』を見て下さっていることに、大変感謝しました」
ウィッシュボン「このぶんでは、どうやら休みがもらえないようですね」

 ウィッシュボンさんのユーモアたっぷりの言葉が笑いを呼ぶ。ウィッシュボンさんは続いて、日本語の吹き替えの声優たちにおじぎをして、
「吹き替え、どうもありがとう。おかげで私はとても日本語がうまく見えています」と笑う。

 フェイバー君はファンから贈られた千羽鶴を胸に、『ローハイド』の劇中と同じく暖かみのある知的な表情。
 ローハイドファンであるという上原謙夫人、小桜葉子さんから贈られた花束に、3人はゴキゲンな微笑でこたえていた。

――私生活でも3人は仲がいいですか?
フェイバー「なにしろ、日に12時間から14時間は3人一緒に仕事です」
ウィッシュボン「それ以外の時間に会いたいと思うもんですか(笑)」

――フェイバーさんは独身ですか?
フェイバー「馬と一緒に暮らすのがカウボーイです。日本の女性と結婚したいのですが・・・(笑)」

――今、アメリカではツイストが大流行だそうですが?
フェイバー「(突然立ってツイストを踊り)カウボーイは前からこんな歩き方です(笑)」

――アメリカでの人工衛星の成功をどう思います?
ウィッシュボン「(立ち上がって)バンザーイ!」

――銃の腕前は?
フェイバー「私は遅くて正確(笑)。ロディはもっと遅くて不正確(笑)」
ロディ「そんなことはない(笑)。でも、3千頭の牛を扱って暮らすのだから大変です」
ウィッシュボン「私は3千人の女性を扱いたい(笑)」

――フェイバーさん、好きな女性は?
フェイバー「誰でも(笑)。共演したいのはバーバラ・スタンウィック(※ローハイドs4#14「閉ざされた野望(1962/1/12)」で共演済み)のような演技のうまい人。仕事が終わったら、ブリジット・バルドーかマリリン・モンローのような人とつきあいたいです(笑)」

――今までの『ローハイド』で一番好きだったのは?
ウィッシュボン「私が結婚しそうになった回です(笑)」

 終始、みんなを笑わせるウィッシュボンさんは、報道陣に取り囲まれてることについて、「この人たちにフィルムを売ったらどんなに儲かったろう」と言って爆笑を呼んでいた。実に楽しく息の合った3人である。
(左より永井一郎、ブラインガー、フレミング、小林修、イーストウッド、山田康雄)

事故防止運動を呼びかけたパレードの中止

 あちこちとファンや報道陣に囲まれ、身動きならぬ『ローハイド』の一行である。西部の草原を矢のように走るのとはまったく違う日本のラッシュぶりに、「交通地獄と聞いたが、ぜひ、事故防止のお役に立ちたい」とNETに申し入れて来たという。そして都内をパレードする予定もとりやめ、事故防止運動を呼びかけるという。
 23日の午前11時、一行は寿屋の多摩川工場へ見学に出かけた。工場の前には、朝早くから待機していたファンがざっと300人。一行が到着すると、なだれのように3人を取り囲んで握手とサインを求める。『ローハイド』スタイルの少年やジーパン姿の少女たちに3人はニコニコしながらサインをしたり、握手をしたりしていた。
(左の画像は「週刊明星」1962年3月18日号より)

 工場内のサロンで、テーブルワインで乾杯をすませた後、3人は大城工場長の案内で場内を見学。3人が歩く廊下のガラス越しに、ファンが手を振り、名を呼ぶと、ロディ君は投げキッスで応えていた。どこへ行ってもファンを大事にし、ひとつひとつの声援にこたえている『ローハイド』スターのサービスぶりだった。(下の画像は上から「映画の友」1962年5月号、下2枚は「週刊読売」1962年3月11日号より。多摩川工場で大歓迎を受ける一行)
 
 

 昼食後は、工場内にある石庭で、寿屋の工員たちとサイン会をして歓談――のなごやかな雰囲気の中で、3人は気軽に談笑していた。
 

 さて、一行の滞日スケジュールは、25日に箱根から熱海をまわり、26日は大阪へ出発、27日は京都、28日が奈良、3月1日も同じく奈良で鹿よせ見物――、そして2日に帰国の予定である。


(中央が小桜葉子。右は映画評論家の小森和子?)
 
週刊平凡 昭和37年(1962年)3月10日号 本文記事
特別座談会 西部トリオがはじめて語る・・・
「ローハイド」撮影楽屋ウラ話



 “ローレン、ローレン、ローレン・・・・ローハイド”と西部の男3人がニッポンを訪れて約10日間、日本各地で熱狂的な大歓迎を受けたが、ファンが一番知りたいのは番組『ローハイド』の裏の物語だろう。以下は、ブラウン管『ローハイド』に映らない、3人のざっくばらんな撮影の楽屋裏話である。


牛は約三千頭です

本誌「今日はファンを代表して、『ローハイド』のブラウン管に写らない裏話をお話し願いたいのですが・・・」

ウィッシュボン「"裏話"ですか?さあ、僕たち、あまり得意じゃないねえ・・・」

 西部の大平原を駆けめぐって真っ赤に日焼けした3人の顔が同時にほころんだ。ところは東京・渋谷のある料亭(※渋谷区松濤1丁目7番10号~15号あたりにあった料亭旅館「石亭」[1969年に廃業])。お揃いのユカタを着込んで、寄せ鍋を箸でつっつきながら、すっかりゴキゲンのローハイドスターたち。

本誌「わたしたちファンがテレビで見て驚くのは、あの牛の群れなんですけど、一体、何頭くらいいるんですか?」

フェイバー「3千頭くらいいます。ストーリーにしたがって、ニューメキシコやアリゾナ、テキサスの間を連れて歩くのですけど、移動に3ヶ月から6ヶ月くらいかかるんです」

ロディ「牛は全部、個人のものを借りてくるんですよ。会社の物でもないし、もちろん僕たちの物でもない(笑)。だいたい、おとなしい物を選んでいるんですよ。時に荒っぽいのを中に入れてもいるんです。実感を出すためにね」

ウィッシュボン「荒っぽいといえば、一度、ひどい事故があったな。進んできた牛の群れが、ちょうどカメラの前で二手に分かれるシーンだった。その時出ていたのが、僕のスタンドインでね。牛に近づき過ぎて、荒いのに角(つの)で胸を突かれて、ひどいケガをしましたよ。でも、命に別状なかったから不幸中の幸いだったけど・・・」


撮影は一日十四時間の重労働

本誌「馬も出てきますけど、あれは、みなさんの持ち馬ですか?」

ロディ「いいえ、馬はスタジオで飼っています。でも『ローハイド』でご存知のように、一緒に出ているから、自分の馬みたいにかわいいですね」

フェイバー「僕の馬はブッチーと名をつけているんですよ」

ウィッシュボン「日本のファンのみなさんの中には、僕たちの撮影がスタジオの大セットの中で行なわれていると思っている人もいるらしいが、実際は、みなアメリカ国内の大平原に行ってやりますので、人間より、牛や馬と会っている時の方が多いんです(笑)」

ロディ「撮影中、楽しいなと思うのは、自然の美しい景色に出会った時ですね。それから、川や湖のほとりに行った時も嬉しいな・・・。僕は水泳が大好きなんで・・・」

フェイバー「僕は撮影が終わって一段落、ちょっと家へ帰れるという時が一番嬉しいな」

ウィッシュボン「『ローハイド』の仕事はなかなか大変でね。僕たち3人とも、日に14時間、週に5日、時には6日もぶっ通しで働くんですよ・・・。やはり疲れますね」

本誌「ところで、何か健康法の秘訣でもあるんですか?」

ウィッシュボン「これといって特別にやっていません。僕たちの場合、仕事がそのまま運動ですからね」

フェイバー「同感だな」

ロディ「僕はやっているよ。毎日、2マイルの距離をかけ足しては、足を鍛えているんだけど、身体全体のためにも素晴らしいね」


ピストル乱射ではケガもする

 一行中、一番若いロディは、実生活では意外にタフガイらしい。『ローハイド』の中では、ご存知、女性にやられていて、日本のファンをやきもきさせているのだが、その事を彼に伝えると、ピクッと首をすくめ、「僕も勝ちたいのは山々だし、その自信もあるんだけどね(笑)。映画のスジがそうじゃないから仕方ないよ」と赤い顔。日本のファンにはすまないけれども、といった表情だ。

 三味線が鳴り始め、和服姿の女性たちが踊り始めた。3人とも、思わず話をやめて見とれている。

フェイバー「僕も踊りたいけど、残念ながら僕はツイストしかできないからな(笑)」

ウィッシュボン「(踊りをつくづくと眺めながら)でも、日本の女性がエレガント(優雅)なのは、想像以上だったね。僕たちの『ローハイド』が日本で素晴らしい人気を得たのは本当に嬉しいけど、ちっとも共通点のない、アメリカの西部劇がどうしてこんなにモテたのだろう?僕が思うに、昔のアメリカ人は西部を開拓しながら、善と悪とを生活の中ではっきり区別していった。日本の歴史の中でも、われわれアメリカ建国の精神と共通するものがあるに違いないね・・・」

フェイバー「とにかく僕は驚いた。アメリカでも『ローハイド』は人気番組のひとつだけれど、日本での人気はもっとずっとすごい」

これから十日間、日本各地を旅行して歩いた3人は、いたる所で、熱狂的な大歓迎を受けたが、その度に“どうしてこんなにうけるのだろう”と首をひねった事だろう。


本誌「ところでウィッシュボンさん、そのヒゲは、いつ頃から伸ばし始めたのですか?」

ウィッシュボン「ああ、これですか?(ヒゲに手をやりながら)ヒゲはいろいろ伸ばしたり、切ったりしてるんですけど、今のは1年ぐらい前からこの形にしています。長さは約2センチ5ミリぐらい。手入れが大変で、週に2、3回、自分でハサミを入れていますよ。役柄もありましてね・・・。『ローハイド』の中で、マッシーを僕がいじめる部分があるでしょう。あれは実はいじめているのではなくて、マッシーがまだ二十歳なのに、おとなのように振るまうから、“後見”のつもりで世話を焼いているんです。つまり僕みたいに年かさで、“後見役”の者は、ヒゲでもはやした方が良いという事なのでしょう(笑)」

本誌「でもラブシーンの場合には、ちょっとお困りではないですか?(笑)」

フェイバー「僕はラブシーンは大好きだね」

ロディ「僕はそうでもないね。相手の女優がなれた人で、うまければいいけど、そうでないと、難しくて、かえっていやな時もありますね」

本誌「撮影中、いやな時もあるでしょうね。例えば、ピストルを撃ち損じて、相手をケガさせたり、反対に自分がケガをしたり・・・」

フェイバー「ピストルをカメラの近くで撃つ時は、一番安全なんですよ。たいてい壁が相手ですから。ちょっと離れて、実際に相手がいる場合、紙弾が肩に入ったりして危ない事もありますね」

ロディ「でも本当に危険な事なんてありませんよ。日本のファンのみなさん、どうぞ安心していてください」


ファンに見せたい大草原でのロケーション

 ふすまがスルスルと開いて和服姿の女性が4、5人現われ、色とりどりの扇に、3人のサインをせがむ。ロディはゴキゲンで応じながら

ロディ「僕は、やっとくつろいだ気分になれたな。アメリカでは仕事、仕事でね。『ローハイド』の“アビリーン(注※ローハイド第114話「ABILENE(邦題:意外な敵)」)”という題名のシーンを日本へ来る前に作ってきましたけど、連日、強行軍でしたよ」

本誌「ロディさんは映画の他に歌手としても評判をとっているようですが・・・」

ロディ「ええ、歌もやっています。日本へ来る一週間前、ロサンゼルスで一枚レコードに吹き込みました。両面で、表は『お馬鹿さん』、裏は『貴方のために、私のために、永遠に』という題です。もう少したったら、日本のキングレコードから発売されるそうですから、どうぞ聴いてください」

本誌「フェイバーさんは、ご自分で『ローハイド』のシーンをお作りになるそうですが・・・」

フェイバー「ええ、今までに二つ作りましたよ。その内の一つは『ドクター・ウイロー』(注※ローハイド第109話「A WOMAN'S PLACE(邦題:沈黙の墓)」の事だと思われる)という題でしたけど、今も四つほど自分でアイディアを持っているんです。アメリカに帰ってから、ゆっくりと考えて作ろうと思っています。どうぞお楽しみに(笑)」

本誌「これから作る『ローハイド』のシーンとタイトルは、もうおわかりですか?」

ウィッシュボン「僕たちにはまだ何もわかっていません。なにしろ、スケジュールを追って、一日一日、働いていますので・・・。自分の作っているシーンが、いつ日本にいって公開されるのか、ちっともわかりません」

フェイバー「でも、今までのは、ほとんど公開されているようだな。僕たちのシーンは大部分、10万エーカーもある広い大平原で撮るんですけど、日本では、あんな広々とした光景は、ちょっと不思議ではないですか?」

本誌「ええ、そうなんです。それに、子供のファンがあなたたちのマネをして、せまい通路で西部劇ごっこをやるものですから、ケガをする子供が最近、どうも増えてきたようですね」

フェイバー「それは大変!どうか、気をつけるように、うまくやってください(笑)」

 だんだん、しびれがきたのか、3人しきりに長い足を机の下で伸ばしたり、引っ込めたり、着慣れないユカタの前がはだけて赤銅色の胸が見えてきた。『ローハイド』の裏話はなかなか尽きない。本誌はファンを代表して、心からの声援を送りながら、フェイバー、ロディ、そしてヒゲのウィッシュボンに別れをつげた。
 
週刊平凡 昭和37年(1962年)3月10日号 グラフ記事
ごきげん/ウィッシュボンさん

 「オオ、ハカマ、ワンダフル!」
スポンサー寿屋の招待で来日した「ローハイド」の人気三人男のうちウィッシュボンは、すっかり日本通になり、連日「ゴキゲン」を連発していた。

(写真キャプション:映画のなかでは料理人として腕をふるっているが、実際はまったくの素人。「コーヒーを入れることとタマゴをゆでることだけしかできない」そうだ。)

ティン、ティン、シャン、シャン――
「ローハイド」一行の世話役といったじいさんことウィッシュボンは、頑固一徹にみえたが素顔はユーモアとウイットに富んだたいへんな人情家。各地でファンから大歓迎をうけた。
「ボクはアメリカで能をみたことがあるよ」
というこのじいさんは、日本式スタイルの夕食を賞味しながら、三味線を器用に弾きこなし、同席のフェイバーやロディをびっくりさせていた。(渋谷の料亭旅館「石亭」にて)
 
サンデー毎日 昭和37年(1962年)3月11日号 本文記事

ローハイド「東京籠城記」 牛より怖いファンの暴走

誰かが転んだら大惨事が・・・

 スタンピート――西部劇ファンならご承知の通り、牛馬の群れの暴走のこと。これはまったく恐ろしい。興奮した集団は、人間も馬車も踏みつぶしてしまう。タフなカウボーイたちも、スタンピートには顔色を変える。テレビ西部劇「ローハイド」主演者一行3人が、来日早々から、ファンたちのスタンピートを避けて、逃げまわっているのも当然だ。

 NETテレビとスポンサー寿屋の招きで、ギル・フェーバー隊長役のエリック・フレミング(34)、若いカウボーイ、ロディに扮するクリント・イーストウッド(31)、料理番ウィッシュボンを演じるポール・ブラインガー(42)の3人が、ニッポンの土を踏んだのは、去る21日午後6時50分。

 一行の乗ったPAA機が到着する2時間ほど前から、羽田空港の様子がおかしくなってきた。空港行きのバスは、どれもティーン・エージャーで超満員、6時過ぎの空港ビルはローハイドファンではちきれんばかり。

「どんなに有名な映画スターが来日しても、これほどの騒ぎにはならないぜ」
と、空港詰めの記者は目を丸くした。
「ボヤボヤするない」
「なにしてんのよ」
と大騒ぎして国際線ロビーからフィンガーに出たファンが駆ける、駆ける。見る見るうちにフィンガーは、黒山のようなファンで埋まった。スタートの遅れた連中は、ひっくり返したクズ入れの上に乗ったり、フィンガーのサックによじ登ったり、照明灯にぶら下がったりして、慌てた警官に引きおろされる始末。
 PAA機が到着した。一般乗客が降り終わった後、一行3人がおなじみのカウボーイスタイルで、ゆっくりとタラップを降りて来た。

(画像は「スクリーン」誌より)
「あっ、フェーバーさんよ」
「わー、ステキ」
「キャーッ」
と悲鳴まじりの歓声があがった。
 ファン7千人(警視庁調べ)の大歓迎は、羽田空港始まって以来のこと。さすがに一行も、一瞬驚いた表情だった。カメラマンのフラッシュを浴び、カウボーイハットをさっと振った3人は、慌ただしく通路に姿を消す。
「それっ」とファンたちはフィンガーから、空港ビル寄りの送迎デッキに特設された舞台に向かって一斉に走り出した。その勢いのすごいこと。まるでスタンピートだ。もし誰か一人がここで転んだら大惨事が起こっていたかもしれない。

スクラム組んだ機動隊

 空港署員を始め、第3、第5機動隊など、200人以上の警官が出動し、この夜の羽田空港の整理に当たっていた。送迎デッキもフィンガーもローハイドファンの専用ではない。一般送迎者の通路を確保しなくては警察の面目が立たない。屈強な機動隊員がスクラムを組んで、特設舞台前にかろうじて幅1メートルたらずの一線を残した。羽田の夜風は寒かった。戸外のデッキに一杯のファンは「ワッショ、ワッショ」とかけ声をかけて前へ押し出して来る。
「押さないで、押さないでっ。みなさんが騒いでいると、ローハイド一行は出てこられません」
 警官の携帯マイクによる指示も聞かばこそ。デモで鍛えた機動隊も、すっかり手を焼いたかたち。とうとう一団の警官が、ファンの群れに割って入り、緩衝地帯を作る。そこから、マフラー、ハイヒールのかたっぽ、カメラケースなど、数々の落とし物が発掘された。3人のカウボーイは税関にカンヅメになったまま。

7千人すっぽかし

 パリから帰国する横綱・大鵬を迎えるため、二所ノ関一門の力士が、ゾロゾロとフィンガーへ向かったが、西部劇ファンたちは、相撲など「関係ないわ」といった表情。
「つぶされる」「助けて」と悲鳴があがり、デモさながらの小ぜり合いが続く。機転をきかした警官が“おどし”をかけた。
「すでに数十人の負傷者が出ています。押すのはやめて下さい」
 フィンガーばかりではなく、国際線ロビーも廊下もティーン・エージャーで一杯。それが一目でもフェーバーさんやロディを見ようと、空港ビル内をネズミのようにウロチョロする。スラックスをはいた3人組に聞いてみた。
「高校?」
「ううん。中学よ」
「どこから来たの?」
「横浜。4時から来てるわ」
「それは大変だ」
「だって、心臓がドキドキしちゃって、勉強なんか手につかないもの。ロディ、素敵。ねっ」
と、完全なテレビ中毒だ。

 予定通りステージで、花束贈呈・挨拶などのスケジュールを実行すれば、本当にケガ人が出るだろう。9時近くなって、主催者側はサジを投げた。ローハイド一行は、待ちかねたファン7千人をすっぽかし、空港での記者会見も中止して、税関下の通路から“脱出”。パトカーに前後を守られて宿舎のパレスホテルへ向かった。
 
(上の画像3枚は映画物語西部劇特集号(1962年)より)

 ホテルに着いた一行は記者会見にのぞんだ。フレミングは「空港につめかけたファンに挨拶できず、実に残念だ。とにかくこんな歓迎を受けたのは生まれて初めて」と言えば、ブラインガーも「このぶんでは興奮して眠れそうもない」とただただビックリ。

 しかし、ファンの熱狂ぶりを主催者は喜んではいられなかった。“交通地獄トーキョー”でのパレードは困難とあって、予定コースはなるべく都心を避けるようになっていたが、それでもこの調子でゆくと、事故が発生する危険があった。
「強行すればできるかもしれないが・・・」
と、ついに警視庁は翌22日の都内パレード中止を主催者側に勧告、パレードは中止された。この夜から、ローハイド一行が滞在中のスケジュールのうち、群集と接触するものは全部けずられることになった。

 22日、ホテルで記者会見。引き続いてレセプション、柳橋の料亭、銀座のバーと、まずはティーン・エージャーと接触しない無難な一日。

流れ星が飛んでたわね

 土曜、24日には、大変な難物が控えていた。
東京オリンピック基金募集のため、午後2時から神田・共立講堂で開かれる「ローハイド・ショー」――18日から売り出した、1枚2百円の入場券1300枚は、たった3日間で売り切れていた。強行あるのみ。一番乗りは中学3年生の少女グループ。朝4時15分に会場前に着いたという。「流れ星が飛んでたわね」とケロリとしていた。

 そのうちに制服にカバンを下げた女学生などが続々と集まり、午前11時には千人あまりが行列。7割がロー・ティーンの女の子。神田署員など約70人が警戒していたが、手不足とみて第5機動隊から応援が来た。入場開始1時間前の午後1時。ここで警察側は会場の入口に2列に並んで、50人ずつ寸断したファンをその間から通すことにした。モノモノしい作戦が図に当たって入場は混乱なし。

顔の真ん中に命中

 午後2時開演。まずテレビ映画「ローハイド」の上映。すでに大半のファンが熱狂し、「キャーッ」と絶叫が響き渡る。3人の主演者が登場した時は、もう大混乱。司会のロイ・ジェームス(32)の声は全然聞こえない。いきなり飛んだ紙テープが、ウエスタンスタイルのフレミングの顔の真ん中に命中した。あとは例によって紙テープ、花束、千羽鶴のレイ、キャラメル、ミカンなどが雨アラレとステージへ飛ぶ。芝居も何もあったものではなかった。
 わざとそうしていたのか、挨拶の時、フレミングがゆっくり話す英語は、日本のジャズ歌手の発音よりずっとわかりやすかった。高校生なら当然理解できる内容なのに、ファンは耳を貸さない。大勢そろって「1、2の3、ロディーッ」「ウィッシュボン、フェーバーさん、こっち向いて」とくり返すだけ。ステージに上がらなかったのが、せめてものこと。

トサカに来ちゃう

 1時間半のショーの大半は、日本側ウエスタン歌手たちの演奏だったが、これにはほとんど拍手が来ず、「つまんないの。トサカに来ちゃう」「早く出せっ」と不平たらたら。お目当てのスター3人が顔を見せたのは前後3回、約30分足らずだった。「これで200円は高いわよ」というファンが多かったが、それは無理な注文というものだ。ショーの台本には、客席のファンをステージに招いてスターと一緒にゲームをさせるなど、ファンサービスの予定もあったのだが、あまりの混乱に恐れをなした主催者側が、そこをすっかりカットしてしまったのだ。ショーが終っても、楽屋口には残ったファンがぎっしり。

「交通妨害になります。歩道へ上がって・・・」「ここからは出ませんよ。早くお帰りなさい」
警官がなんと言っても、500人あまりのファンは動かない。そのまま約1時間。警察と主催者で協議の上、楽屋口を使わず、いったん閉じた正門入口に自動車をつけ、同時に飛び出すといった計画を立てた。成功。ホウホウのていで一行はホテルに逃げ帰った。

「“ローハイド”が通れば交通はマヒする」。大阪駅前でそれが証明された。
日曜を箱根で過ごした一行は、14時30分大阪着の特急第一ふじに乗った。到着予定時刻頃、大阪駅付近に集まっていたファンは約300人。

何をしに来たのかわからない

「予定通りなら何も起こらなかったのですがね」と関係者は悔しがるが、不運にも架線切断事故のため、列車が1時間10分ほど延着したのがケチのつけ始め。
「女の子がえらく多いわ。なんやろか」と、物見高い浪花っ子がどんどん集まった。
列車の着いた時、大阪駅西出口は約4千人の人の波。

 とやかくするうち、野次馬は増える一方で、ついに1万人を突破した。これでは駅から逃げ出すことさえ出来ない。あふれた人間が車道にこぼれ出し、ついに先の梅田の火事以来の交通マヒが起こった。ジュズつなぎになった市電や自動車の運転手たちは、「なんや、なんや」と言い合っていたが、やがて前から情報が伝わった。「“ローハイド・マヒ”やで」
200人の警官が一行を救出、交通マヒが解消したのは約1時間後だった。

 度重なる“大歓迎”に、3人は愛想良く「サンキュー」をくり返していたが、「これではローハイド一行は何しに来たのかわからない」という声に、頭が痛い主催者側はこう答えている。
「当方の望むところではないが、ファンが熱狂すればするほど、一行はファンから遠ざかる結果になってしまいました。今後も人気スターを招けばこういう事態が予想されるわけで、考えなければ・・・と思っています」

 
映画の友 昭和37年5月号 本文記事 今月のスター・特集版 小森和子
「ローハイド」の3人男
 エリック・フレミング
 クリント・イーストウッド
 ポール・ブリニガー


 三人を招いて····


 まず三人をお招きしたのは日本のお百姓屋(約七百年前のもの)をそのまま東京へ持ってきたという料亭の一角で、華やかな饗応や芸者パーティ等はご見物済みであろうご一行にごゆるりおくつろぎ願うためでした。

 とはいえ、やはり質問はしたし、話してももらいたいし。しかもなるべく三等分とせにゃ失礼と、さぞや芯が疲れるであろうと思いきや、すこぶる「ローハイド」的で、お互いに面と向かって悪口も言い合うなごやかなムードには、ともするとこちらの方がおくつろぎ気分にさせられます。

「あなたがお仕事仲間以外に芸能界にご親友は?」と、まず愚問を発したのにも三人が異口同音に

「この連中とはほとんど四六時中、いやおうなしに仕事で一緒だから他に親友どころか恋をする暇もありませんよ」

 と言うのに、さすがここでも隊長“ギル・フェイバー”役のエリック・フレミング氏で、他の二人をたしなめるまじめな面持で、

エリック「俳優間には、あなたも多分ご存じのように、共演する同士でも競争からうまくいかぬ例がしばしばあるが、僕たちの間にはまったくそれがないのです」と一同を代表しますと、すぐ“ウィッシュボン”役のポール・ブリニガー氏が、
ポール「まったくやむを得ざる宿命でね」とマゼ返す。

 この人のウィットとユーモアは種々の会見記などでも既にご存じでしょうが、まったく秀逸。それもデッドパン(Deadpan:無表情)で言うので、こちらにはそのユーモアやシャレもすぐにはピンとこず、ピンボケ時分になって笑っちまうという申訳なさ。

「あなたは、ある新聞記事で知ったのですが、能についてお詳しいそうですが?」

ポール「ハテ、そのノウとは何かね?えっ、日本のクラシック・ダンスの一種だって?そりゃまだわしゃ見たこともないから“アイ・ドン・ノウ”ということしかわからんね」(注※能とKnowをかけたシャレ)

「じゃ、ウィリアム・ホールデン[1918-1981](※「第十七捕虜収容所(1953)」でアカデミー主演男優賞、西部劇映画「ワイルドバンチ(1969)」主演)に憧れて俳優になられた、というのは本当?」

ポール「それも大いなるお笑いじゃね。ホールデンと僕はパサデナ・プレイハウス(演劇学校)のクラスで一緒だったことはあるが、憧れたとなると彼がよほど若く化けているのか、僕が年寄りに化けているかだ。なんせわしゃ生まれながらのスター・ストラック(「ステージ・ストラック」(舞台恐怖症をもじってのシャレでスター志願という意)なんじゃからね」といった調子。

 ロディ役のクリント・イーストウッド君に向きを変えて、
「あなたは愛妻家だと聞きますし、日本からのテレビ訪問でも彼女におみやげを買って帰るそうですが、もうお買いになりました?」

クリント「まだ買物どころか見たい所も見る暇がない。これじゃとても買えそうもないナ」

エリック「お前が愛妻家かね····彼女の方が賢明にもお前に見切りをつけてうるさく言わんから平和に見えるんじゃないのかナ」

 と、クリントの耳元へ顔を近づけてさも囁くようにしながらも、こちらはいたずらっぽくウィンクして聞こえよがしに言うのに、クリントは一瞬エリックをにらむ表情の後、おもむろにこちららへ向きなおって

クリント「僕が愛妻家なのは彼女がすこぶる理解ある良妻だからなんですよ」

 クリントがのんびり育った坊やみたいな感じは役柄からもうかがえますが、重厚なフェイバー隊長にこんな茶目っぽい一面があるのは意外でした。

 そのフレミングに「あなたが今まで結婚なさらないのは、馬の方が察しやすいとおっしゃいましたが、それだけの理由?」

エリック「····もちろん僕みたいな荒くれ育ちの男には、繊細な感情の女性より単純な馬の方が察しやすい。が、それだけではない。それを話せば長い事になるが、僕は現在の生活で満ち足りている。もちろん女性も良き友達として必要だが“ローハイド”の仕事と、その準備····台詞をメモライズする等····それにつながるインタビュー、実演、趣味のスクリプト(※台本や脚本)書きや家具作り、木彫り等の楽しみで今はいっぱいだ。
 それに僕のような苦労多い生活をしてきた者には、現在のこの安定感をもった生活を独りで心ゆくまで楽しみたいという一種利己的な欲望がある。それがすっかり充たされた時、あるいはそれにも何かミスするものが感じられた時にこそ、僕は生活を共にする仲間····つまり妻を求めるだろう」

「今、“僕のような荒くれた”とか“苦労多い”とおっしゃた生活を、あなたご自身でご記憶にあるところから簡単に説明して下さいません?」

エリック「簡単に説明とは難しいが、やってみましょう。僕が今日まで経験したジョブだけでもそう簡単ではないが····」


 ★三人がみずから語るライフ・ストーリー

●ギル・フェイバー エリック・フレミング

 1927年7月4日(※本当は1925年生まれ)、アメリカの独立記念日にカリフォルニア州のサンタ・ポーラに生まれた彼は、労働者、といっても定職のない父と看護婦をする母の間で、経済的にも愛情にも恵まれずに育った。

 だが母親は心底では愛していたのだ。なぜなら彼が、確か七つの時に骨髄炎という大病で死に直面した時、父の反対を押し切って手術を受けさせたのは母だったから。

 その結果、彼は一命を取り止めたが、母はその愛情の手術費の犠牲として遠くヨーロッパへの長い転勤となり、彼には天涯の孤児同様の孤独な少年期が始まった。

 貧しく孤独な少年がおもむく道はたいてい悪である。その仲間入りは易く、善への道は厳しいからだ。大人の悪の手助けさえ無心でした彼はいつしか放浪癖も身につけた。何かこの世界から逃亡したかったという心が、彼を放浪へ駆り立てたのでもあろう。

 やがて幾ばくかの金を懐中にした彼は少年の冒険心に燃えてニューヨークへ。そこではからずも知ったのが、ある少年の手引きによるその家庭愛であった。しかしその幸福感もまもなく羨望と変り、それはやがて彼を郷愁へと駆り立てた。一年中、戸外で寝られるカリフォルニア、そして温かい母の愛である。

 そんな気持で帰った彼が、ヨーロッパから呼び戻された母と再会したのは少年裁判所だった。彼の飢えがこうした結果を生んだのであった。しかし飢えはそれのみに止まらず、出頭を命ぜられた父に養育力なきを知った裁判所は、母が仕送りを約す事で彼を解放した。

 そして母は再び欧州へ働きに行かねばならなかった。「この時の別れくらい僕の生涯にとってつらい思い出はない」と述懐する彼は、同時に、次の母との再会の折には必ずや彼女を喜ばすような自分になっているとひそかに心に誓ったのだった。

 母からの仕送りは滞りなくされた。だが同じ町に止まっていては決意の実現もおぼつかぬのを知った彼は敢然サンフランシスコへ。14才を16と偽ってソーダーファウンテンのボーイになったのを振り出しにコック見習い、給仕、救急車運転手、石炭運び等、放浪癖の赴くままに職を変えた。

 だが母のいいつけを守って昼間は学校に通う事と、まともな働きによって飢えをしのぐ事だけは忘れなかった。

 そんな彼に運命の神もようやく微笑みかけたのであろう。ある日、作業仲間のボスに呼ばれた彼は、年を偽っていたのを見破られると同時に、このボスの口ききで映画会社の大道具方に推薦してくれた。その上、彼はエリックのために映画会社の職員組合への保証金まで払ってやろうと申出た。

『渡る世間に鬼はない』というが、彼にとってこの人は今にして思うと『求めよ、さらば与えられん』の神の『み言葉』を初めて実感させた人でもあるという。

「余った物を人に分け与えるのは比較的イージーだが、返るアテもない金を与えようとするのはなかなか難しい事だ」という彼に、この人は生涯忘れ得ぬ人となると共に「他人の純粋な好意には最善を尽して報いよう」とする心をも初めて知らしめたという。

 だが間もなくされたアメリカの参戦は、彼を更に未知の世界へ駆り立てた。人一倍大柄とはいえまだ15になったばかりの彼に、憧れの銃や軍服は許されなかった。そこで彼は軍物資輸送の船員になった。

 潮風と太陽、それだけでも彼にとっては自由な新世界であると同時に、米国中のほとんどの港を廻る間に彼は団結と秩序ある生活を学んだ。そしてこの生活から彼は自力への自覚と責任感、事柄に対する正しい判断力を身につけるようになった。

 1945年の夏、終戦と共に海上生活におさらばした彼は、まず先のボスを訪れた。新たな人生経験に胸はふくらんでも、これといった仕事の目的はなかった。

 19歳のたくましい青年になった彼とその豊富な体験をボスは裏方に埋もらすのは忍びなかったのでもあろう。
「いっそ役者にならんかね」といった一言はエリックに更に未知の世界への意欲を燃え立たせた。「何でもやってきた自分だ。俳優にだってなれぬことはない」と。

 旅芸人の生活は大道具方も兼ねていた。そして調法がられる彼の生活は彼にも快適なものだった。しかし、俳優とは、ノエル・カワード(「ハバナの男」にも出演した英国の有名な劇作家兼俳優)の言うごとく『単にステージを歩きまわり台詞を喋りながら家具にけつまずかぬようにする事だけではない』のを知った彼は、演技勉強の必要を感じてロスの学校に学ぶと、再びサマー・ストック(※夏期に避暑地や郊外で行われるプロの演劇公演)に投じた。

 彼が俳優として再誕生したその芝居“Happy Birthday”のスターはミリアム・ホプキンス[1902-1972](※映画「虚栄の市(1935)」でアカデミー主演女優賞候補、「女相続人(1949)」でゴールデングローブ助演女優賞候補)であった。

 そしてこの劇団で「初めてガールフレンドも出来て更に演技への楽しさを知った」という彼は一座と共に再びニューヨークへ。

 同じこの街も、彼には「まったく新たに見えた」という。「そして人生はいかなる時にも断じて諦めるべきではない」と知った彼は、やがて「Plain and Fancy」の主役を演じ、
「Portrait of a Lady」ではジェニファー・ジョーンズ[1919-2009](※映画「慕情(1955)」でアカデミー主演女優賞候補)と、
「My Three Angels」ではウォルター・スレザック[1902-1983](※1955年にミュージカル主演男優部門でトニー賞)と、
「Tower Beyond Tragedy」ではジュディス・アンダーソン[1897-1992](※映画「レベッカ(1940)」でアカデミー助演女優賞候補)と共演したほか、「第十七捕虜収容所(※舞台版)」等にも出演。

 輝かしいキャリアを打ち立てたようだが、「例の放浪癖とホームシックもあって再びカリフォルニアへ帰った」彼は、フリーランスで映画「宇宙征服 / The Conquest of Space(1955)」「Cast No Shadow」に出演、映画「惑星X悲劇の壊滅 / Queen Of Outer Space(1958)」ではザ・ザ・ガボールと共演する一方、テレビでは「Studio One」「The Phil Silvers Show(You'll Never Get Rich)」等に出演、またオフ・ブロードウェイ芝居の当市公演にも出演した。

「ローハイドのギル・フェイバー役を得られたのはいつでしたか?」

エリック「プロデューサーの一人であるエドガー・ピータースンが僕に目をとめて、全製作スタッフに推進してくれたのだが、それも僕がボスをスタジオへ訪ねた時のことだった。それは確か1957年の夏のある日のことだったと思う」

 こうしたエリックとの長話の間も、初めはときどき傑作なギャグを飛ばしに来た“ウィッシュボン”先生も、やがて話題がシリアスになったと感ずくや、クリントと共に集まってきたこの料亭の人たち(皆さん彼等のファンでした)や、聞きつけて駆けつけたらしいファンの方たちにサインしたり、天ぷらや刺身などに箸使いの妙技を見せたり、けっこう話も通じ合ったりして無邪気に交歓しているのでした。こうしたところにも和気あいあいたるチーム・ワークぶりがうかがえます。

 また三人が単なる愛想でなく日本料理を賞味することも驚異的で、普通は敬遠するイカ刺しまで、ツルツルするのをちゃんとわさびの効いたお醤油につけて器用に口まで運び、お新香も「ジャパニーズ・ピクルスだ」と心得たもの。
 特にエリックが「これは伝説的なジャパニーズ・ライスの食べ方だってね」と、お茶漬までサラサラやるのは驚きでした。


●ウイッシュボン ポール・ブリニガー

「今度は僕の身元調査かネ?」と代った“ウィッシュボン”の生れは。

ポール「僕はこう見えても1919年12月19日(※本当は1917年生まれ)、ニュー・メキシコ生まれの当年とってまだ43歳の男盛り。コンファームド・バチェラー(レッキとした独身)だがアヴェイラブル(結婚生活者としての可能性あり)かつ、ディザイアブル(理想的)である」

「では今まで結婚しなかったのは?」

ポール「わしには生まれながらの良き仲間があったからだ。“アクティング”だ。『ショウより素敵な商売はない』とは以前からわかっていた。だが今やもう一人、良き仲間を持つのも悪くないと感ずるようになった」

「どうして“ウィッシュボン”を獲得なさったの?」

ポール「わしが獲得したんじゃなく、獲得されちゃったんじゃよ。先方から決めてきて、ぜがひでも、というわけさ。····どうしてそうなったかって?それすなわち、わしが何でも演れぬことなき、かつ、理想的なる性格俳優じゃということさ。フィュウチャー映画(劇場用映画)ももちろん出たよ。だが舞台経歴の方が長い。なんせわしが初めて記憶するという事を記憶しだしたのは、ニューメキシコの素人芝居に出た時の年だもの。
 それからは····もちろん学校へも行ったけど、そこでも常に演技してたし、あらゆる機会にサマー・ストック(※夏期に避暑地や郊外で行われるプロの演劇公演)に加わった。そしてパサデナ・ジュニア・カレッジを卒業後、プレイハウスのクラスに学びながら、舞台や映画、テレビにも出演した。
 もっとも舞台より映画は僕のようなアクターよりスターを必要とするから、映画ではビッツ(端役)程度の出演が多かったが、舞台は見せたかったようなもんだよ。ただし西部劇の「キャトル・エンパイア(邦題:峡谷の対決 ※ローハイドのプロデューサー、チャールズ・マーキス・ウォーレンが監督を務めた1958年の西部劇映画)」だけは別らしい。これでわしの名演技が“ローハイド”の決定役となったんじゃからね」

 ロマンス・グレイといえる髪もあご髭も本物で、ロマンティックというにはいささか固すぎるものの、ごりっぱ。このために若い頃から老け役に廻されたが、

ポール「心は常に青春だった。なぜなら実際には老けてゆく恐れを知らなかったから。そしてもう一つ得をしたのは、このグレイ・ヘアのおかげでスターならぬアクターにもなれたことだ」

 ただしそのあご髭の方は“ウィッシュボン”のために生やしたのではなく、その少し以前からたくわえたものとか。

「もし、俳優にならなかったとしたら、何になりたかったとお思いになる?」

ポール「俳優さ。何が何でも俳優さ」

「ではクッキングだけが、あなたのような万能アクターにもできない唯一の事ってわけね」

ポール「····ウンニャ、そのクッキングさえリアリズムに見えたから、日本へ来る前“クッキングのテレビプロにぜひ出てほしい”と言われたんだよ。ほんとだよ」


●ロディ・イェーツ クリント・イーストウッド

「まったくお笑いさ」と、この時ヌーッといった感じでこちらへ顔を向けたのが“ロディ”ことクリント君でした。

「さあ、こんどはあなたの番よ」
 というと、法廷で宣誓する時のしぐさよろしく、大きな目をクルリ一回転させて右手をあげる彼は、ほんとに愛すべきいたずら坊やという感じ。

「もし俳優にならなかったら、あなたは何になったでしょう?」

クリント「バム」

「····?····ああ、風来坊("とんま"とか"ドン感"という意もある)ね!····じゃあ、どうして俳優になったの?あなたご自身の意思?それとも思わぬチャンス?」

クリント「····ウェル····」と、鼻をこすってどうやら共鳴している様子。

「まず、あなたの生い立ちから、ザっとでいいから話して下さらない?もう日本のファンはローハイドのスリー・ガイズのことなら、先刻ご存じですけれど、ご自身から聞きたいのよ」

クリント「····そう、僕が良きハズだというようにね」

「だってそうでしょ?」

クリント「ウ····僕もそう思う、悪くはないナ····」といっこうに進展しない。

 やっとせき立てて聞き出したところでは、1930年5月31日、サンフランシスコ産ということは、「コレクト」(正確)だそうです。

 パパが運輸会社の重役だったこともコレクトで、したがって「決して金持ちではなかった」と彼は念を押しましたが、富裕な雰囲気の家庭に育った彼は、のんびりと少年時代を過し、お背の方ものーんびりと伸びました。当時から、ほぼ現在と同じくらいの背丈だったそうです。

 高校は両親の希望で、隣りの町ともいうべきオークランドの工業学校に入りましたが、この在学中、勉強よりスポーツに熱中。小さい時から得意の水泳はもちろん「のっぽ物語」のトニー・パーキンスのごとく、のっぽのおかげで引っぱられたバスケットボール部へ入り、まもなくチャンプとして州選抜試合にも出場、大いに名をあげたようです。

「こうしてスポーツでは、自然にファイトが湧いてくるものだ。それが僕をバムにしないですんだのだろうが、とにかく僕は高校を出るとひとりで自由に生活したかった」

 そこで両親の希望のカレッジ進学もやめて、その代わりお小遣いも止められて、ひとりひょう然と米大陸をバスで横断。ワシントン州やオレゴン州を彷徨、懐中も底をつくと木材の伐採人夫など、鍛えた体だけを元手に生命をつなぎました。

 だがこうした風来坊暮しの楽しさも、徴兵期になって中断。1951年海軍へ入隊して、カリフォルニアのフォート・オード基地で、特技の水泳と救護作業の教官を勤めました。

 ここへユニヴァーサルのロケ隊が来て、彼に監督とおぼしき····あるいは配役部員··が除隊後はぜひ俳優になれとすすめました。

「もしこのサジェスチョンがなかったら、僕はまたバムに帰ったかもしれない」

という彼は、除隊するやワシントン大学への進学をすすめる両親のサジェスチョンにはのらりくらりとためらいの表情をたたえる一方で、心中では、俳優たらんか、俳優たらざるか、それが疑問じゃ、と繰り返していたのです。

 だがもともと嫌いな道じゃなく、高校時代いくらかの経験もあったのが、遂にその煩悶を解決。多くは望まぬものの、いくらかの自信をつけるために、お手近のロサンゼルスにあるシティ・カレッジのドラマ・コースを選んだのです。

 すでに24才というオトシの上、人一倍のっぽな彼は、勉学にはファイトのわかさざるを得ませんでした。

クリント「でも、僕にとっては学校でのコースや学生同志の芝居ごっこより、サマー・ストック(※夏期に避暑地や郊外で行われるプロの演劇公演)の方が面白かった。といっても、えてして僕の与えられるのはアンダースタディ(※出演俳優が急に出られなくなった場合に備えてすぐに代役を務められるよう公演中に待機する俳優)だったがネ」で、ご健康な俳優ぞろいだったらしく、「誰も病気になったり、自動車をぶつけなかった」という彼には、ステージではパッとしたチャンスはめぐり来なかったようです。

「でも、ステキなことがあったでしょう?確かこの時代に、現在の愛妻マギー・ジョンスンにめぐり逢って結婚したんじゃない?」

クリント「あんたの方が、僕よりずっと僕について詳しいじゃないの!····」

「では、もっと言いましょうか?間違ってたら、あなたがコレクトしてね」

 元ミス・ジョンスンのマギーはその頃その界隈では知られたモデルで、彼とはモデルや俳優のエージェントの家で催されたカクテルパーティで会ったのですが、お互いに一目惚れで結婚した学生俳優の彼を助けてマギーは内助の功を発揮(これにも彼は照れ臭そうに笑いながらもうなずく)しました。

 だがいよいよ彼にも、第一のチャンス到来。マギーの肝煎りで開かれたごくささやかなパーティに招かれたユニヴァーサルの助監督の一人が、果せるかな彼にスクリーン・テストをアレンジし、結果はヴァーサル入りとなったのです。しかしここの約一年半は、作品にも役柄にも恵まれず、退社してフリーランスになりました。

「ちょっと待って、一つ、僕がぜひ足したい事がある。それは「二人の可愛い逃亡者 / Escapade in Japan(注※1957年公開の映画。イーストウッドはノンクレジット出演。主な撮影地は日本で、アメリカ人少年と日本人少年が京都や奈良を旅するストーリー。主役の少年はTVドラマ「名犬ラッシー:シーズン4~11」のジョン・プロヴォスト。日本人俳優は藤田進や三宅邦子、江川宇礼雄などが出演)」って映画があったでしょ?日本を背景に二人のボーイズが活躍する。····そうそう、テレサ・ライト[1918-2005](※「ミニヴァー夫人」でアカデミー助演女優賞)とキャメロン・ミッチェルも出ていた。あの時、僕はパイロットの役になったんだけど、僕の出演シーンは日本まで飛んで行かなくてもセットで間に合うからいいって言われちゃって、日本へ行けぬのがとても残念だった。僕はその頃から日本が好きだったんだ」

 フリーになってからはフォックス、RKO、ワーナー等の映画(オール未輸入)に出演しましたが、これというほどの役にありつけず、テレビの「ハイウェイパトロール」のブロデリック・クロフォードの子分役のパトロール警官などに出演。今おもっても、これといった思い出もない約4年の後、第二のチャンスが訪れたのもマギーのはからぬ助力といえましょう。

 1958年のある日、マギーの紹介で、彼女の友人に会いにCBSテレビ局を訪れた時、
クリント「たぶんマギーは····未だに彼女は僕に言わないし、僕も聞かないが····その友人にナマケ者の僕を紹介して、職を与えてやってくれと言うつもりだったんだろう。だがとにかく、僕は彼女····マギーの友人····と会ってすぐCBSの当時の映画部長だったロバート・スパークスの部屋へ通されたんだ。そして“ロディ・オブ・ローハイド”になっちまったというわけさ」

「そしてマギーとクリントは、サン・ファーナンド・ヴァレーの愛の巣で幾久しく幸福に暮らしましたとさ、というわけネ」

クリント「僕もそう願いたいね」


 くつろいだひと夜  いろいろ うかがってみましょう····

 これでどうやら「ローハイド」のスリー・ガイズが自ら語るライフ・ストーリーの一席は、お粗末ながらまずこれまで····と相成ったわけですが、そこで

「あなた方のお仕事の暇にする一番好きなご趣味は?」と聞くと、まず、

ポール「昼寝。これらのムクツケキ野郎どもやキャトル(牛)と一日に十四、五時間、一週間の中、五日から六日も一緒じゃ寝るのが天国。それから水泳さ。僕は清潔をムネとする紳士じゃからね」

クリント「僕も水泳と釣り、ゴルフ····かナ。レース・カーだって?そう車も好きだけど、今は仕事があるし、愛妻家として昔のようなムチャなドライヴはできませんナ····今の車?ジャガーです」

エリック「僕はテレビのスクリプト(※台本や脚本)書きが一番」

「お好きな食べ物は?」

クリント、エリック同音に、
「ウィッシュボンが作った以外の物なら何でも!それに僕たちはよく“リトル・トウキョウ”まで日本食を食べに行きます。スキヤキ、テムピュラ、サシミ····何でも知ってたけど、今夜みたいにおいしいのは初めて。ジョン・ブロムフィールドから、日本の歓迎ぶりと食べ物のおいしいのは聞いてたけれど、予想以上だ!」

「お好きな俳優は?女優も」

ポール「僕。それ以外でも僕。女優は、特に選り好みはしないけど、今は日本女性と共演したいナ。彼(エリックを向いて)は実生活の方でも日本女性と共演したいらしいが····」

エリック「もちろん、どちらでも歓迎だ。しかし今までに共演した人の中ではバーバラ・スタンウィック(※ローハイドs4#14「閉ざされた野望」で共演)やマーセデス・マッケンブリッジ(※ローハイドs1#13「廃墟の町の悲劇」、s3#9「素晴らしきママ」、s4#19「欲望の町」で共演)のような演技のうまい人。仕事の後ではマリリン・モンローやブリジット・バルドーみたいな人と過してみたい。僕は映画ではいつも女性に恵まれない。いつも彼(クリントを向いて)にさらわれちまうんだから」

「あら、そうじゃなく、あなたが女性にもきわめて冷静だからでしょ?」

エリック「そう見える?だとすれば、僕も相当なる名優かナ····でも本人はたいへん情熱的なんですよ」

クリント「········」ニヤニヤ

「どうもこの人にはウカウカしゃべれんよ」とエリックは口の中でモジャモジャ言ったようです。

「劇場映画に出演なさりたい?また何か予定はありますか?」

ポール「今は、心身的にも一時的にも“ローハイド”に献身させられている」

クリント「僕も同じだ」

エリック「僕にふさわしい役があれば、出たいと思う。しかし現在はこの二人と同様です」

「“ローハイド”はどのくらいまで続くでしょう?」

ポール「契約を更新した一年分を、やっと撮り終えて日本へ来たところだ。そしてもう一年更新の契約も済ませたところだから、一年は大丈夫続くが、また更新される可能性も多い」

「じっさいの撮影は主にどこでされるのですか?」

エリック「カリフォルニアやニュー・メキシコなど、牛飼いの人が牛を提供してくれ····出演させる所と、もちろん牛が集まっている所なら、時には遠くへも出掛けます」

「射ち合いや、スタンピードのシーンなどで怪我したことはありません?」

エリック「僕は映画に入るまで、乗馬はした事がなかったから、初めはしばしば落馬もしたが“ローハイド”に出る頃には猛練習のおかげで落馬もしなくなった。射ち合いのシーンでは完全な装備がされているから、危険はないが、それでもたまにエキストラの人にスタンピードなどで、けが人が出る事もあります。クリントはときどき馬には振られるね」

クリント「馬は女性ほどに僕を理解せんからネ。だが、射ち合いは僕が一番のファースト・ガンだナ」

エリック「その代わりミスも一番。僕はスローでもシュアだナ」

 もう一行をスポンサーの寿屋さんへお引き渡しをする時間が迫ってきました。そこで「ご自分たちの映画以外のお好きな映画は?」と言うと、

ポール「僕が結婚しそうになったり、ガールを獲得しそうになったのなら何でも」
と、またもやスマーシてご自身のことばかり。
「以外には?」とまた念を押すと、今度は即座に、
ポール「“セブン・デイ・イッチ”」
 これはマリリン・モンローの『七年目の浮気』を“七日目の浮気”にもじった、またもや出色の洒落でした。

クリント「僕はずっと前に見た『暁前の決断』という映画だが、これに出ていたオスカー・ウェルナーという役者も好きさ」

エリック「僕は今日本に来ているせいか、見た日本映画が想い浮かぶ····『蜘蛛巣城』『無法松の一生』『七人の侍』『用心棒』それに『米』も見た。そしてみんな好きだ」

「ファン・メールはどこの国からが一番多いのですか?」

エリック「やはり自国のアメリカ。それから日本とイギリスで、あとの種々の国からのは数えきれません。それから、この際に私たちのファンへお伝え願いたいのだが、ファン・メールの次の所宛が最も早く確実です」

C.B.S. T.V. City
  RAWHIDE
  LOS ANGELES.
  CALIFORNIA, U.S.A.

と、エリックじきじきに書いてくれました。いよいよ最後のご質問。
「スターになって一番いいと思う事と嫌な事は?」には、クリントがいち早く

クリント「グッド・ペイ」と言い、ちょっと首を縮めて、いたずらっ子がおずおず兄貴を見るようにエリックを見る。

エリック「もちろんグッド・ペイは、とてもありがたい事です。しかしまずこうして、日本へ来られたこと。そして多くの人々に会え、愛されること。ロケで方々へ行かれ、新しい世界や新しい人々を知ることです。こうした幸運に対して当然の事ですが、プライバシーの無いこと。特に時間的に自由な時間がほとんど無いというほどに無い事です」

 これにはポールも、そしてエリック(※「クリント」の誤植?)もまったく同感、といったていで深く肯きました。

 日本のお茶が殊のほかお気に召したらしく、次のデートにせき立てられるのにも、隊長のエリックが代表して、

「せっかくこんなにも素晴しい食事、サケ、サントリーウィスキー、ビーヤ、そして会話を楽しんだ後で、もう少し素晴らしい日本茶も楽しませてほしい」

と、座椅子にゆったり寄りかかり、ながなが足を伸して、心からおくつろぎの様子を見せてくれたのは、こちらも本当に嬉しいことでした。
 
週刊明星 昭和37年(1962年)3月18日号 グラフ記事

楽しい日本旅行 ローハイドのカウボーイトリオ

 NETテレビの人気番組「ローハイド」の一行が来日した。すなわち、フェーバー隊長のエリック・フレミング、ロディ役のクリント・イーストウッド、それにウィッシュボン役のポール・ブリネガーの3人だ。2月21日夕刻の羽田空港は、ほぼ七千人のファンで割れるような騒ぎ。警視庁の機動隊200名が声をからして整理にあたる始末だった。おなじみのカウボーイ姿で3人がタラップに現れると、すさまじい歓声がまき起こる。3人は一瞬ビックリしたような顔つきを見せたが、これが自分たちを歓迎するファンの群れだと知って大ニコニコ。予定の記者会見もとりやめて、ホテルへすべりこんだが、さすがのカウボーイ達も、日本での素晴しい歓迎に頬を紅潮させていた。

いそがしいデス

 東京へ着いてから、この人気者トリオはスケジュールがぎっしり。22日の記者会見に始まって、「ローハイド」のスポンサー寿屋の多摩川工場見学、NETでのビデオ撮り、共立講堂でオリンピック資金募集のためのチャリティーショー(司会・ロイ・ジェームス)と、息をつく暇もない忙しさだ。どこへ行ってもすごいモテ方だが、ベテランスターらしく、ふりまく笑顔も三者三様。ブリネガーはガンコだが気のいいオジサンだし、イーストウッドは気前のいい兄いだ。そして親分のフレミングは渋い味のある笑顔を見せる。テレビそのままの個性にファンが熱狂するのも無理はない。

日曜を箱根で

 25日の日曜日は、10時半にホテルを出発して、一路、待望の箱根へ。春まだ浅い箱根路は身を切るような寒さだったが、3人組は元気いっぱい。
 
 
 
 
(上5枚と下1枚の画像は別雑誌より。一番上の1枚は箱根・湖尻にて。中3枚は芦ノ湖畔の雑木林にて。下は芦ノ湖の桃源台港にてモーターボートに乗り込んだ3人)

 早雲山のテッペンから湖尻へ降り、芦ノ湖でモーターボートを乗りまわす。西部の男たちはこれくらいじゃへこたれないぜとばかり、フルスピードで、文字通り涼しい顔をしてござる。帰りには仙石原のスケートリンクでひとすべり。フェーバー隊長とロディ君はどうして見事な腕前だが、ウィッシュボン爺さんは、やっぱり足もとがあぶなっかしい。転んだところをファンの少女に助け起こされたが、なんとも不服そうな顔つきだった。

フェーバー隊長と若大将

 加山雄三一家はそろって、大のローハイドファンだ。特に加山の母親の小桜葉子さんは、フェーバー隊長と以前から文通したり贈物をとり交わしたりという間柄だ。そこで25日、一行が箱根へやって来たのを幸い、加山母子はそろって、彼等の宿舎環翠楼を訪れた。3人は丹前にくつろいですっかりゴキゲン。加山も興に乗ってお得意のギターで「ローハイド」の主題歌をひとくさり。『ローレンローレン』の合唱が雪のちらつく箱根の山を震わせた。
 
週刊明星 昭和37年(1962年)3月18日号 本文記事
「ローハイド」ニッポンの10日間
 スシと女性はとてもイカス



フェイバーさん、もっと顔見せて!

 来日4日目の24日、「ローハイド」スター歓迎の熱狂ムードは最高潮に達した。午前中から神田共立講堂の周囲は、ハイティーンファンで押すな押すなのすさまじさ。身動きならぬ超満員で午後2時開幕のベルが鳴ったが、このショーの演出がまたシャクなほどうまい。

 まず「ローハイド」ならではの牛の群れの鳴き声。つづいてテレビの通り「さあ行くぞ、出発!」とフェイバー隊長が叫んで、バックのワイドスクリーンに、エリック・フレミング(フェイバー)、クリント・イーストウッド(ロディ)、ポール・ブリネガー(ウィッシュボン)のアップが浮かび上がる。拍手の嵐なんていうもんじゃない。喚声とタメ息と若い女性の体臭が異様なコーフンになって場内にウズ巻く。

 気がつくと舞台は闇に閉ざされた西部の広野だ。その真ん中で「ローハイド」の誰かが焚き火を燃やす。炎に照らされた、がっしりと背の高い男のシルエット。お待ちかねウエスタンスタイルのギル・フェイバーが登場だ。

『東への道は遠く、はるかだ。思えばミズリーまで何千マイルもの果てしない道を、よく牛を運んだものだ。いろんなことがあった。しかし、日本への道、それはこのギル・フェイバーにとっても初めての道だ。』

 あの低音で、たくましい声がつづく。
そこへやって来たのがロディとウィッシュボン爺やだ。

(「スクリーン」1962年5月号より神田共立講堂でのローハイドショー)

話は日本のことになる。フジヤマ、東京、美しい女性・・・・・そのうち交通地獄とスキヤキに話題がかわって場内はぐっと親しみのあるムードとなる。そこで華やかなゲストによる「ローハイド」メロディのバクハツだ。寺本圭一(28)、ウイリー沖山(28)、大野義夫(30)、斎藤チヤ子(19)、ハニー・ナイツ・・・・・。ウエスタンバンドの演奏をバックに、フィナーレの花束贈呈が終わっても、超満員の場内は津波のように揺れ動く。

「もっとフェイバーさんたちを出してくれなくちゃイヤ!」
「もう一度顔見せて!」
 ガマンできない女性ファンの熱狂派が楽屋のほうへ殺到する。チャメッ気たっぷりなロディがぼやいた。
「こんなにモテるんなら早くワイフをもらうんじゃなかった」



日本のお嬢さん、最高デス!

 このあと、控え室で本誌のインタビューに応じ、つづいて機嫌よく座談会の席へ。その模様をざっと誌上録音すると、テーブルの上にはスポンサーの寿屋提供のコーラ、ジュース、それと江戸前の握り寿司が大きな器で運ばれてくる。さっそく3人は、トロをつまんで、「ウマイ、ウマイ!」

フェイバー「スシって物がこれほどうまいとは思わなかったね。日本の魚は新鮮で実においしい」

ロディ「(フェイバーの方を見て)ソイソース(醤油)はどこへつけるんだい? 」

フェイバー「知らんのか。こうだよ。(と器用にタネのほうへ醤油をつけ)おい。これもおいしいぞ(今度はカッパ巻がお気に召したらしい)」

ロディ「うちの女房のハムエッグは天下一品だが、帰国したらこのスシの作り方を教えてやるかな」

ウィッシュボン「わしは『ローハイド』の中でこのスシを握りたいよ。コック長だから料理はお手のものさ」

フェイバー「(ウェーッという顔で)コーヒーとゆで卵だけは、まあ、なんとかごまかせる(笑)」

ロディ「それもパーコレーターと卵ゆで器があればね(爆笑)」

フェイバー「とにかく日本のティーンエイジャーの熱狂ぶりには、ドギモをぬかれたな。しかし女性はきれだね。まるで花束みたいだよ」

ロディ「じゃあ34年の独身生活にピリオドを打つか? 」

フェイバー「日本の女性ともし結婚できたら最高だ。そりゃあ僕にもガールフレンドはいるが、いざ結婚となると難しいね(笑)」

ウィッシュボン「おいおい。ワシだってまだ42歳で独身だぞ。この年まで独りでいるからには、涙ぐましいエピソードもあったよ。ここらでそろそろ嫁さんを見つけなくちゃあ」

ロディ「僕だけ女房持ちとはついてないな(笑)。これでもシックスティーン(16歳)のつもりでいるのに(笑)」

フェイバー「冗談はともかく、日本のムードはたまらなくいいね。今日も茶の湯に招待されたが、気持ちが落ち着いて素晴らしかった」

ロディ「日本の木のお風呂も素敵だぜ。ゆうべはあれに浸って鼻唄を歌ってたら、もう少しで眠っちゃうところだった(笑)」

ウィッシュボン「ワシは能を見たいよ。それから京都、奈良、鎌倉の大仏もおがみたいんだ」

フェイバー「僕は趣味で仏像を集めてるから、古い寺をまわるのが楽しみだ。ところでロディ、日本語は覚えたかい?」

ロディ「コンニチワ、ドモアリガトウ、それから・・・」

フェイバー「サヨナラ、まだあるぞ。ニホンノオジョサン、トテモキレイ!(爆笑)」

 そこへ一行と一緒に本誌の表紙写真を撮ることになっている田代みどりちゃん(注※当時13歳の人気少女歌手)が駆けつけて、座談会はジ・エンド。(下の写真は「週刊明星1962年4月1日号」の表紙を飾った三人と田代みどり)

芦ノ湖で玉子うどんに舌づつみ

 翌25日の朝10時半、皇居前にあるパレスホテルの玄関へ、皮コートのフレミング、真白いジャンパーのイーストウッド、外套姿のブラインガーが颯爽と勢揃い。
今や遅しと待ちかねたファン、報道陣に包囲される。これから3人べつべつの車に乗り込み、新聞・報道社の取材陣を従えて箱根へドライブという段取りだ。

 ところがホテルを出る早々、カウボーイスタイルに身を固めたファンの少年がオートバイにうちまたがって、フェイバー隊長の車にピッタリとくっつき通し。「箱根まで行って拳銃ごっこをするんだ!」とダダをこねたが、交通整理に引っ掛かって泣く泣く隊列から離れる。

 長蛇のドライブ行は、藤沢から湘南ドライブウェーをフッとばし、箱根路をうねりながら午後3時頃、強羅のホテル環翠楼(かんすいろう)へ到着。

 昼食後、早雲山からロープウェイで芦ノ湖へ下り、モーターボートを快速運転するはずだったが、早春の湖上はまだ寒いというので中止。イーストウッドとブリネガーは「寒い寒い」を連発する。
 それでもファンやカメラマンの期待に応えて若いイーストウッドは「ちょっと俺の腕前を見てくれ」と、ボートに飛び込む。ところが、日本製のボートは勝手が違うのか、いっこうに言う事をきいてくれない。するとフレミングが、いきなり水の中へザプーン!ズボンの濡れる事などおかまいなしに、ボートをエイッと押してやる。「こっちは海兵隊あがりだからな。濡れネズミにはなれてるよ」 (※上の画像3枚は「スクリーン」1962年5月号より)

それがすむと、今度は湖畔の後楽園ロッジへ繰り込んでのアイススケートだ。


(↑上段の左画像と下段は映画ストーリー1962年5月号、上段の右はスクリーン1962年5月号より)
(スクリーン1962年5月号よりアイススケートを楽しむイーストウッド)
(映画物語西部劇特集号(1962年)より)

予定にはない飛び入りだったので「わーっ、フェイバーさんとロディよっ。ステキ!」とばかり若い女性スケーターが、たちまち黒山のよう。3人は器用に氷上をスイスイ滑りまくり、帰りがけには売店の玉子うどんをフーフー吹きながらご馳走になっていた。
(玉子うどんをすする三人。上の画像は「スクリーン」1962年5月号、下2枚は「映画ストーリー」1962年5月号より)

加山雄三も駆けつけて

 その夜の箱根はすごい雪だ。湯上りに宿の丹前を着込んだ「ローハイド」の旦那がたは、もってこいの温泉情緒にトロリとしたゴキゲン。
酒サカナが揃い、スキヤキ鍋の肉がぐつぐつ煮え始めた。早くから雪の中をはるばる訪ねて来ていた加山雄三とママの小桜葉子さんが一座に加わる。

 ママはたくましきフェイバー隊長のファンだから、握手したり、タバコの火をつけてもらったりの、なごやかな交歓風景。加山を紹介して「マイ・サン(私の息子)」と言うと、「うわっ。若い!ママさん、トテモキレイデス」。独身のフェイバーが、たまげてハネ上がった。

 加山の方は、スピード狂のイ-ストウッドとぜんぜん気が合う。オートバイからモーターボート、スポーツカーまでは充分に付き合ったが、加山が国体のスキー選手で、楽器なら何でもこなすと言うと、「キミは和製のスーパーマンだ。ぜひ映画を見たいが、ロサンゼルスの日本上映館でやらないかな。その時はぜひアメリカへ来いよ。僕の愛妻マギーにも紹介するから」と、今度はオノロケだ。

 寿屋のポートワインで乾杯、いい気分になった加山が、ギターを抱いてウエスタンを歌い出す。ハスキーボイスにかけてはちょっと自信のイ-ストウッドが、また加山のギターを弾いてうかれだすというにぎやかさ。ブリネガーだけは、ご自慢のアゴヒゲをなでながら、終始ニコニコ。
その間も箱根の山には久々の雪がじゃんじゃん降り積もっていた。

 さて翌26日早朝、「ローハイド」のスターたちは、箱根の山を下って熱海駅から一路大阪へ。記者会見、歓迎レセプションにのぞんだのち、27、28、1日は、憧れの京都、奈良を見物し、2日ふたたび東京へ舞い戻って、午後11時59分羽田発の飛行機で帰国する。

「想像していた通りの紳士。あの素朴なムードがとても魅力ですね(小桜葉子)」

『ローハイド』スターの素敵な印象は、いつまでもファンの胸に焼きついているに違いない。
 
週刊平凡 昭和37年(1962年)3月10日号 グラフ記事
「ローハイド」箱根越え

(↑「スクリーン」1962年5月号より)


 来日以来、休む暇もなかった一行にとって、待ちに待った休日だった。この日の箱根は雪空におおわれてゾクゾクするような寒さで、さすがの大男たちも天をあおいで肩をすぼめていた。早雲山ふもとからケーブルカーに乗り、湖尻まで35分間、眼下にひろがる大パノラマに三人は感嘆の声をあげて満足気だった。
(ボートを岸に着かせるため湖に飛び込んだフレミング。「映画ストーリー」1962年5月号より)

芦ノ湖で快速ボートをとばした後、後楽園スケート場で飛び入り滑走するなど、いかにも西部男らしい明るく奔放な行状記。夜はスキ焼きと刺身をサカナに日本酒を飲むなど、すっかり日本通になったようだ。
(仲居に見送られ、蛇の目傘を差しながら雪景色に目を見張る「環翠楼」を出発直前のフレミング。下の画像は別雑誌より)
 

 「純日本式の旅館に泊まりたい」という3人の希望をいれて、旅行はすべて日本式だった。「なんでも吸収したいという気持なんでしょうね。風俗や習慣を説明するのに苦労しました」。スポンサー寿屋の関係者がネを上げるほど、彼らの勉強ぶりは熱心のようだ。(※「強羅 環翠楼」公式HP内の「当館について」に3人の宿泊時についての記載あり)

 東京での全日程を終えた一行は、2月24日午前10時30分、宿舎パレスホテルを出発して箱根に向い、強羅の温泉宿(環翠楼)で一泊、翌日は早朝から雪景色の山をおり、熱海駅から特急第1富士で大阪へたっていった。


たこ焼きで大歓迎 「ローハイド」関西へ

 特急『第一富士』のデラックスなパーラーカーにのって、来日以来はじめてホッとしたひととき。目的地大阪にはまた大歓迎の人のウズが待ちかまえている。
(※↓は一行が乗車したと思われる時間帯の特急第一富士の時刻表[1962年]。熱海駅から乗車し、架線事故の影響で1時間半ほど遅れたので大阪駅に到着したのは午後4時頃)
 
(↓左画像は「スクリーン」1962年5月号、右は「映画ストーリー」1962年5月号より)
(※↓はパーラーカーの参考画像。右下は京都鉄道博物館に展示されている当時の座席1脚)

「フジヤマが見えなくて残念だ」ウイッシュボン爺のつぶやきをよそに、『特急第一富士』は走り続け、約1時間半遅れて大阪駅のホームにすべりこんだ。

一行はここでもファンの猛攻撃を受けたが(大阪駅前広場は約5千人の大群衆にうずめられ、交通もまったくのマヒ状態。予定されていたパレードも府警からの申し入れにより中止になるという混雑ぶりだった)、無事にグランドホテルに落ち着き、記者会見。寿屋本社を訪問した後、午後6時半、新大阪ホテルでの歓迎レセプションにのぞんだ。

(左写真キャプション)「ムッ、これは不思議な味だ」愛想のいい彼もさすがに奇妙な顔
(中写真、同)模擬店のタコやきに興味をもったフレミング
(右写真、同)馴れれば結構いただけますよ

一行は大阪から京都、奈良を見物し、3月2日夜、羽田から帰国、10日間の日本滞在を終わる。

五千人の群衆が集まった大阪駅前広場。最終的には一万人が集まり、大渋滞となった。


(上の画像2枚は別雑誌より大阪での記者会見)
 
寿屋の山崎製樽工場を見学
来日7日目(大阪2日目)、三人は大阪府三島郡島本町山崎5丁目2番1号にある寿屋の山崎製樽工場(現・サントリー山崎蒸溜所)を見学。上段の左画像の「フォークリフトに乗せた酒樽に腰かけているフレミングとイーストウッドと横に立つブラインガー」は寿屋が制作したハンカチに印刷されたもの。下段の左画像は「映画の友」1962年5月号、右は「映画ストーリー」1962年5月号より。
 
 
下の左画像は2000年代初頭の山崎蒸溜所。三人がここを訪れた1962年当時、壁面に掲げられていた六角形の白い看板にはサントリーの社章である金色の「向獅子」マークがあったが、 その後、金色の「響」マークに変更(下の左画像)、2023年現在は黒い筆文字で「山崎」と書かれた看板(下の右画像)になっている。
 
週刊明星 昭和37年(1962年)3月25日号 グラフ記事
ローハイド 楽しい日本旅行


京都の三人組

 2月28日は一日中、あこがれの京都見物。まず二条城を訪れたが、殺到するファンの群れに、急遽、予定を変更して銀閣寺へ。しっとりとした落ち着きを見せる古寺の風景に、三人ともただ目を見張るばかり。

桂離宮では三人そろって「ウーム」とうなった。

(※上の桂離宮での画像2枚はスクリーン1962年5月号より)

 ウィッシュボンじいさんなど、こっそりホテルを抜け出して、念願の能を見学するため、金春流家元の稽古場を訪ね、見てるだけではおさまらなくなって、実際に能の稽古を始める始末。

だが、やっぱり西部野郎の血は争えない。翌日は生駒の射撃場で、景気良くクレー射撃の腕を競った。

三人ともこの射撃場の名誉会員に

生駒のクレー射撃場を出るローハイド・トリオ。”日本の雪景色はステキですね”

 
 
(上の画像5枚は別雑誌より奈良観光中の一行。フレミングとブラインガーも手を触れた上の左画像の「東大寺の巨大やかん」の哀しい末路はこちら

奈良に遊ぶ・・・

 “ローハイド3人組”は、京都・奈良がことのほかお気に召したらしい。奈良では東大寺大仏殿二月堂興福寺の五重塔、東大寺鐘つき堂、支倉、春日大社などを見学して3月1日には有名な飛火野の鹿よせを楽しんだ。
 
 
 
 
 フェイバー隊長のフレミングは、渋い京都のたたずまいにすっかり感嘆。「こうした世界中に誇れる古い都を持った日本国民は、本当に幸福です。できる事ならもう一度、充分に、奈良・京都の古美術を見てまわりたいもんだ!」と、興奮した口調でくりかえしていた。

「アメリカへ帰ったら京都の素晴らしさを大いに吹聴するつもり。奈良京都の3日間は、生涯忘れられぬ思い出となるでしょう!」
 
スクリーン 昭和37年(1962年)5月号 本文記事
日本に上陸した「ローハイド」台風
(※来日5日目の3月25日、箱根湖尻の桃源台で休憩中のインタビュー+東京と大阪の記者会見から)
西部から来た三人の紳士たち、その素顔を探る

 二月二十日の夜羽田に着いてから十日あまりの間「ローハイド」の人気トリオが日本各地で何如に物凄いファンの歓迎に遇ったかは、テレビや新聞などで読者の皆さんも既に御承知のことだろう。

 昨年春、日本に上陸したのがジェス“旋風”ならそのスケールをしのぐこと数倍…先ずは「ローハイド」“台風”とでも呼びたいような人気の爆発である。そして“ジェス旋風”がしきりにナミダの雨を降らせたウェット型だったのと対照的に、今度の“ローハイド台風”はいかにも西部の曠野から吹いて来たように心持よくカワいていて、後味のよいものだった。
         *
 今度来日したエリック・フレミング(フェイヴァー役)、クリント・イーストウッド(ロディ)、ポール・ブラインガア(ウィッシュボーン)の三人とジカに会ってみると、演技を離れていても三人がそれぞれによけいなナニワ節抜きでサラッとしたあの「ローハイド」的爽快味の持ち主であることが良く解る。

 先ず来日トリオの隊長格でもあるエリック・フレミングだがブラウン管からハミ出したギル・フェイヴァーを一言で言えばやはり渋い。六フィート四インチ(190センチ)の巨体をすこしかがめるようにして細い目のはしにシワをよせ笑顔をつくる。劇中では滅多に笑わないムッツリ派の彼も、歓迎続きの日本滞在中は笑顔の連続。ついにあの口をキッとへの字に結んで眼をむいた厳しい表情を見せることもなかった。彼について意外だったのは、次週予告のフィルムでチョッピリ彼等の“地声”に接するだけの我々だから無理もないが、ロディ、ウィッシュボーン二人の声が吹替えの声質に比較的近かったのに比べてフレミングのナマの声がビックリするほど深みのある響きの良い低音だったこと。

 ロディ役のクリント・イーストウッドは意外に背が高い。この細面のハンサムボーイはテレビで観ると何となく小さく見えるんだが、実際にはフレミングと同じ六フィート四インチの大男だ。口数もあまり多くなく、自分を主張するより人の言うことを良くカミしめるという内気なタイプの二枚目。

 やはりケッサクなのはボール・ブラインガアだ。シリーズでお馴染のウィッシュボーン爺さんそのままにヒゲつきのアゴを左右に振りながらマクシ立てる様子は観る者の微笑をさそわずにはおかない。来日した三人の中唯一人の大学出のインテリだけにダジャレからひねったジョークまで、ユーモアのセンスも相当高度に発達していると観た。もっともヒゲのせいで四十二才という実際の年令にはどうしても観られないのはお気の毒な限りだったが....。
         *
 連日のスケジュールに追われるこの西部から来た三人の紳士たちと話をする機会に恵まれたのは、一行が二月二十五日、箱根湖尻の桃源台で休憩をとった短い時間だった。前夜から風邪ぎみで少し熱がある、というイーストウッドに加えてコートを着こんだ“お年寄り”ブラインガアの二人は箱根の寒さにいささか閉口の面持ち。レモンの輪切りをシャプって元気の良いのはフレミングだけ、という有様だったが、三人とも記者の質間には快く答えてくれた。以下箱根でのインタビューと、東京・大阪での記者会見から抜萃した一問一答を御紹介してみよう。

<日本語吹替え版を御覧になって、皆さんどうでした?>

フレミング「言葉はぜんぜん解りませんが、口の動きがあんなにうまく行ってるとはおもわなかった」

イーストウッド「私の英語よりよっぽどましなんじゃないかナ」

ブラインガア「吹替えの人はヒゲなしで良く私の声を真似出来るもんだ――感心しましたよ」

<日本でのファンの熱狂ぶりをどうお感じですか>

フレミング「アメリカではこんなに大歓迎されたことは無いし、自分達も驚いています。警護して戴いた警察の方々が私達をキライになっちゃうんじゃないか、というのが心配ですが...」(笑)

<撮影のことについてうかがいますが、大体の予算と一本当りの製作日数を....>

フレミング「予算はエピソード当り約十万ドル。一日十二時間から十四時間働いて六日間で撮り上げます。休みは年に二ヶ月ぐらいですね」

<皆さんの拳銃の腕前は?>

フレミング「抜くのが一番早いのはイーストウッド君です。但し狙いの方は正確とは言えません。私は抜くのは遅いが狙いはたしかだ...」

イーストウッド「撮影で使うのは空砲ですよ。狙いが確かかどうか解るもんですか!」(笑)

ブラインガア「ビスケット焼くスピードなら二人にゃ負けません」――(三月一日阪奈射撃場で拝見した三人のクレー射撃の結果を参考までに御紹介すると、フレミングは四発、イーストウッドとブラインガアは二発ずつ的を狙ったが、いずれも0点。尤も銃が借りものだった故とこの日の寒さがたたったんだ、と西部男達は弁解してるが....)

<牛を扱うのは皆さん本当にうまいんですか?>

フレミング「四年間も演ってると巧くならざるを得ませんよ」

イーストウッド「牛の代りに三千人の女性を扱ってみたいナ」

フレミング「ともかく撮影で我々がトリックを使うのは非常に稀です。俳優協会の定めでどうしてもスタンド・インを使わなければならない場合を除いて、大概の場面は自分達で演ってますからね」

<画面で飲む酒は?>

フレミング「ウィスキーはコカ・コーラを薄めたものです。ビールは本物ですがね――」

ブラインガア「大体、本当にウィスキーをあおってなんかいたら撮影なぞ出来ゃしません」

<フレミングさんは自分で脚本も書かれるそうですね>

フレミング「今迄に“女医”という題のエピソードなど二本の脚本と四つのストーリー・アイデアを出してます。でも将来脚本家として立つつもりはありません」

<日本映画出演の話は?>

フレミング「今のところありません。ところで私にチョンマゲは似合うかな...?」(笑)

<ジョン・ブロムフィールドさんの出た日本映画「モーガン警部と謎の男」は見ましたか>

イーストウッド「残念ながら見てません。機会がなかったので」

<ブラインガアさんの料理の腕はどの程度ですか?>

イーストウッド「マズいコーヒーを沸かすのと、カンズメを開けて暖めるのが精一ぱいですよ」

ブラインガア「日本で自動式のパーコレーターを買ってうまいコーヒーを入れて連中を驚かしてやりますよ」

<ところでヒゲはいつ頃から?>

ブラインガア「五年前から生えて来たんですよ。アタマの方は未だ生え揃っておりません。何しろ私は未だ十六才だから....」(笑)

<皆さんのお好きな女優は>

ブラインガア「女優全部!」(笑)

イーストウッド「ブリジット・バルドー」

フレミング「BBも良いけど私はマリリン・モンローだな」

<本誌四月号のグラフで一緒のルタ・リーさんは?フィアンセですか?>

フレミング「日本へ来てあの写真が載ってる雑誌を見せられるとは思わなかったな。一緒に仕事をした事も何度かある人で大変アトラクティヴな女性です。デートはしますが婚約はしていません」

<結婚はいつごろ....?>

フレミング「さあ、日本へ来てチャーミングな女性に沢山遇いすぎたから...どうなるかナ」

<イーストウッドさんは愛妻家で有名だそうですが、マギー夫人を連れて来られなかった理由は>

イーストウッド「寿屋さんが招待してくれなかったんで...」

フレミング「いや、彼は友情に厚い男だからね」

<皆さんが丁度日本へ向って飛んでるころグレン中佐の人間衛星の打上げが成功したんですが、フレミングさん、もし人間衛星に乗れ、と言われたらどうします?>

フレミング「いや、衛星のパイロットはごめんですね...何しろ西部にもスペース(宇宙)は未だふんだんにあるんだから」(笑)
         *
「ローハイド」の仕事についてから四年間に撮られたより、何倍もの数の写真を数日の間に日本で撮られた...と嬉しい悲鳴をあげながらも別表の様に東京と関西を元気に駆けめぐった「ローハイド」トリオは三月三日、フレミングが覚えた“シュッパツ!”の掛け声と共に“アリガトウ”“サヨナラ”などの日本語を連発しながら新しい仕事の待つハリウッドへ帰っていった。

※25日の「午後10時東京発、車で箱根へ」の誤りを「午前10時東京発」に修正
 
週刊平凡 昭和37年(1962年)3月15日号 テレビラジオ欄「タイム」より
フェイバーさんはお兄さんの感じ!ローハイド・トリオと一少女ファン

「日本に来て休む間もないほどの大歓迎に、ただ感激するばかり。最後にたいへん熱心なファンに会い、日本に来て本当に良かった。心からそう思いました。一生の思い出となるだろう」

 スポンサー寿屋の招待で21日来日した『ローハイド』のトリオ、フェイバー隊長、ロディ君、ウイッシュボン爺やの一行は、口々にそう語りながら、3日夜11時59分羽田発で帰国したが、最後に会った熱心なファンとは、大阪府豊中市第五中学3年生の金井正子さん(15歳)だ。

 それは1日のこと。一行が大阪から帰京する飛行機の中に場所を違えたかのように、ただ一人の少女が手に千羽鶴を持ってゆうゆうと乗っていた。

「私は『ローハイド』の大ファンなんです。フェイバーさんたちが来るというので、妹を含めた友人5人で一週間もかかって千羽鶴を3千羽折り、3人になんとかして渡したかったのですが、普通の方法ではとてもだめとわかり、この飛行機に乗ることを知って、一週間前におこづかいとお父さんから援助してもらったお金で予約してしまったのです」
と語る正子さんの話に一同はびっくり。正子さんから千羽鶴を送られたり、正子さんの色紙にサインをしたりして、東京に着くまでの2時間を楽しく過ごした。

 3人に会った正子さんの印象は「ロディさんは、テレビではすぐ女の人を好きになるので、実際もそうじゃないかと思ったが、そんな人ではなく、いっぺんで好きになってしまった。フェイバーさんはお兄さんの感じ。ウイッシュボンさんは、前からヒゲが本物かどうか知りたかったが、人がいいお父さんみたいな人」ということであった。
 
週刊女性 昭和37年(1962年)3月14日号 本文記事
日本で初めてよいことをした
盲目の少女とローハイド・スターの喜び
(右写真キャプション)人ごみをかき分けてフェイバーは敬子さんに駆けよった。

 ローハイドの一行はすさまじい歓迎にあって帰っていった。でも、その豪華な宴会よりも、ローハイドの胸にもっと深く残った喜びは、ある夜ひっそりとたずねて来た、半ば光を失った少女に出会えたことだった。アリガト、アリガトと、フェイバーは何度も少女を抱きしめた。

8年前の二重橋の惨劇で

 床の上にきちんと正座して、少女は愛くるしい顔をくっつけるようにしながら、テレビを見つめる。少女の黒く澄みきったその瞳とテレビは、30センチと離れていない。それほど近づかなければ、少女には画面に何がうつっているのかわからないのだ。
この少女の名は山田敬子さん。
 8年前、昭和29年1月2日、10才の時だった。
 この日、敬子さんは両親に手をひかれて、皇居二重橋前の宮内拝賀の群集の中にいた。橋のたもとに張ってあった縄がとかれたとたん、敬子さんの悲劇が起こったのだった。押し寄せていた万に近い群衆がひしめいて二重橋を渡りかけた時、そこはもう修羅場だった。誰かが倒れ、あとに続く人たちが折り重なって、悲鳴があがった。その人の渦の中に敬子さんがいた。幼い少女の身体の上を幾十の土足が踏み渡った。
 失神した敬子さんはすぐ病院にかつぎこまれたが、その時はもう敬子さんの瞳は、いくら見開いても、真っ黒い闇しか見えなかった。視神経が砕かれていたのである。

 その闇のとばりを、わずかだけれども暁の光で開いてくれたのは東大清水外科だった。一時は視力0.1まで回復した。が・・・敬子さんの切れ長の瞳は、またゆっくりとながら光を失ってきている。その上、手や足から感覚がなくなってきた。物にすがれば立てるが、離すと、すぐ倒れる。外には出たことがない。家の中、床の上の毎日。それに最近はどうしたことか、突然、全身がケイレンして、気を失うことが多くなった。全治はおそらく望めないのだろう。

 18才になった今でも、敬子さんの身体は1メートル40センチぐらい。きゃしゃで、羽毛のように軽い。こうして、床にふせったきりの敬子さんのただ一つの楽しみは、3年前、不幸な娘へのせめてものなぐさめにお父さんが贈ってくれたテレビの、小さな画面に顔を寄せることになったのだ。そのテレビは、敬子さんの枕もと、すぐ手が届くところに置いてある。

ローハイドに励まされ

 敬子さんが好きなのは西部劇。中でもローハイドのスターたちの男らしいさっぱりとした演技が大好きだ。劇の終わりに、フェイバーが「行くぞ!出発!」と叫ぶ時、敬子さんは自分の半ば麻痺しかけた手足にも、力が甦ってくるような気がする。もしお父さんが遅くなってローハイドを見られなかった時、敬子さんは、その日の物語を話してあげる。
「あのね、フェイバーさんがね・・・・・・、ロディさんはね・・・・・・」と。

 羽田にも、共立講堂のチャリティ・ショーにも行けなくて、しょんぼりして悲しそうな敬子さんに、お姉さんの端子さんは新聞や雑誌から拾い集めたローハイドのニュースを毎日、夕食の時に教えてくれた。
「あら、フェイバーさんはまだ独身なの・・・」
 そんな時だけ、敬子さんの瞳は微笑んだ。

 なんとか・・・と思って、お母さんのまつさん(58)はNETテレビに、長い手紙を書いていた。その返事はまだなかった。それに、この2日間、敬子さんは何も食べていない。好きなリンゴをむいてあげても、敬子さんは頭を横に振る。食欲が全然ないのだ。もし返事がOKにしても、会いに行けるかしら・・・。

かなえられた夢

 「ローハイドかなんだか知らないが、敬子ちゃんが行きたいのなら行かせてあげなさい」
 東京大学外科の清水先生(※東大医学部の清水健太郎[1903-1987]第一外科主任教授。当時の脳神経外科の権威)は、こう言って敬子さんの外出を許してくれた。
「ほんと、私がローハイドに会えるの!」
 うわあっ、うれしい、と敬子さんは、まだ渋るお母さんをせかして仕度を始めた。着物はもちろんローハイドが大好きな和服。ピンクの花を散らしたお召に、白っぽい羽織をふわりとかけ、銀色の草履をはくと、色白でふっくらとした敬子さんは、まるで京人形のように可愛らしかった。

 3月1日午後6時、敬子さんは週刊女性さし回しの車で、しっかりプレゼントの人形を抱えてローハイド歓迎会場の椿山荘(文京区音羽)に向かった。椿山荘は敷地2万坪。会場はその広い庭園の奥の、深い木立に囲まれた四阿(あずまや)だった。
 でも、ローハイドにすぐは会えなかった。薄ら明かりの世界でローハイドだけを生き甲斐のように慕っている少女が、こぬか雨の中で待っていようとは、まだ彼らは知らなかったのだ。それに、会場は知名士で一杯。ローハイドは次々に握手攻めにあっていた。3時間たった。
 夜は真っ暗で、四阿(あずまや)の軒につるされたぼんぼりが、雨に濡れた林の葉を銀色に光らせていた。敬子さんの瞳はうるんで、黒い2枚の木の葉のようだった。

<忙しいから、会ってくれないのかしら・・・>
 しかし、やっと宴の半ばになって、メシイに近い少女が自分たちを寂しく待っていると聞いたフェイバーのたくましい口元はギュッと引き締まった。
 そして成吉思汗(ジンギスカン)料理をつっついているロディとウィッシュボンにささやいた。
「たくさんの人たちが歓迎してくれたなあ。だけど、誰よりも僕たちを愛してくれている少女が、隣の部屋で待っているんだ」
「どうしたの?」
と、緊張した3人を見て大川NET社長(※NETテレビと東映の社長でプロ野球東映フライヤーズのオーナー・大川博[1896-1971])がマユをくもらせた。事情を知った大川社長はすぐに言った。
「すぐこちらへお連れなさい」
 敬子さんは係の人からこの言葉を聞くと、抱き上げようとする記者の手を振り払った。会場との境の障子まで畳3枚。敬子さんは頬を紅く染めるほど力を込めて、ゆっくりと歩いて行った。

フェイバーに抱かれて

 仲居さんが障子を引き開けるとフェイバーはそこに、白っぽい装いの少女の姿を見た。内側にカールした黒い髪が、はらりと羽織の肩にかかっているのが印象的だった。少女は、ざわめきがパッと静まった、広い会場のどこかを探し求めていた。ふっと少女がよろけた。フェイバーは、少女との間にふさがっていた紳士たちを、大きな長い腕を頭上から振りおろし、突き飛ばさんばかりにかき分けて突進した。一瞬のちに敬子さんを後ろから抱きしめていた。

「オ、ナ、マ、エ、ハ?」
 少女は突然、がっしりした腕に抱きすくめられ、一寸ほど足が床から離れたのがわかった。ヤツデのように大きな手のひらが、自分の握りしめたこぶしをそっと柔らかくつつんだ。
「オ、ナ、マ、エ、ハ?」
「もっとお顔を近く」
 少女の言った言葉の意味はわからなかったが、フェイバーは分厚い胸の肉を折るように、身体をかがめた。
 少女の瞳が、しっかりとフェイバーのキラキラしたグリーンの目をとらえた。目も口も、少女の顔中が微笑んだようだった。
「わたくし、ヤマダケイコ」
「おう、ケイコ・ヤマダ。K、・・・K、E、I」
 フェイバーはもどかしそうに、ケ、イ、コと口ずさみながら、少女を抱え上げ、3歩で少女を元の暖かいガスストーブの席に連れ戻した。

 敬子さんとお母さんが並んで座り、ローハイドの3人たちはその後ろに膝まずいて敬子さんを見つめた。
「皆さん、いらっしゃるのよ。ロディさんも、ウィッシュボンさんも・・・皆さん・・・」

 フェイバーが敬子さんの左手をとり、ざんばら髪のロディも右手をとった。ウィッシュボンお爺さんはそっと少女の肩を抱いて、何度もうなずいていた。敬子さんはテーブルの下をまさぐって、プレゼントのお人形を取り出した。そして、一つ一つ確かめて3人に手渡した。
「フェイバーさんには」
花嫁人形・・・。
「ロディさんには」
歌舞伎座で買ったイキな若衆人形を・・・。
「ウィッシュボンさんには」
 康雄お兄さんが買ってきてくれた東北の、ひなびて、おどけたお百姓姿の郷土人形を・・・。

 ローハイドたちは、10センチほどのお人形を大事そうに両手でつまみ、オーオーと嘆声をあげながら、アリガト、アリガトを繰り返した。
「あのね、フェイバーさん」
 心は言葉なしで、もう通じ合うようだった。
「ハイ」
 フェイバーはかしこまって、顔をグッと近づけた。
「フェイバーさん。私、お願いがあるの」
 通訳が意味を伝えると、フェイバーは早くそのお願いを言ってくれるようにと、手を振って通訳をいそがせた。敬子さんは、たもとをひらひらさせて、そっと顔を隠したけれど、すぐに明るい、はちきれそうな笑顔を見せて言った。
「フェイバーさん、早く美しくて優しいお嫁さんをもらってください。32才はそろそろお年頃ですよ」
 フェイバーは強い意思をひそませた額にシワを寄せて微笑んだ。
「フェイバーさんは決して間違わない人だけど、結婚ばかりはロディさんを見習わなくちゃいけませんよ」
 小柄であどけなさを残した敬子さんは、フェイバーたちには、ほんの12、3才に見えたことだろう。でも、フェイバーは、ひたすらに恐縮した顔をほころばせた。
「ウィッシュボンお爺さん!」
と敬子さんが呼びかけた時、分で刻むローハイドたちの時間は無くなったようだった。
「これまで!これまで!」
 無情に係員が叫んで、フェイバーの肩を叩いた。フェイバーはちょっと係員を見たが無視した。
「マイ・リトル・ママ!」
 私の小さなお母さん、フェイバーはそう言った。
「私は決してあなたを忘れませんよ」
 係員にせかされて、やっと3人は立ち上がったけれど、目はいつまでも敬子さんを見つめ、そしてその目はうるんで見えた。特にウィッシュボンお爺さんのしょぼついた小さな灰色の目は。

消えない思い出に

 10分、いや、5分間かもしれなかった。でも、新宿区原町の路道のすみ、バラック建て2間きりの家に帰った敬子さんは、すっかり幸せにつつまれていた。
「フェイバーさんに会えた?」
 めっきり白髪が増えているお父さんが心配そうに声をかける。
「会えたわよ」
「なんて言ってた?」
「忘れちゃった。2、3日したら思い出すかもしれない。だって、あまり嬉しかったんだもの」
 父の米蔵さんは、ローハイドがプレゼントしてくれたサイン入りの写真を見つめて、ただ、「よかった。よかったな」と、つぶやいた。

 敬子は今夜はぐっすり眠れるだろう、とお母さんは思う。それは、2日間も眠られなかったせいではない。あの悲しい日から8年、二重苦に苦しんできた敬子さんに、初めて訪れた喜びの夜だったからだ。
「フェイバーさんたち、本当にありがとう・・・」
と、お母さんの目頭は熱い。

 だが、残念なことに敬子さんもお母さんも、あののち、ローハイドのスターが大川社長に言った言葉を知らない。フェイバーはこう言ったのだった。

「敬子ちゃんに会えて良かった。会わなければ、今度の日本訪問はまるで無駄だったような気がします。私たちは、初めて日本で良いことができたのですから・・・。これで、嬉しさを噛みしめながら、アメリカへ帰れます」
 
昭和37年(1962年)3月4日 毎日新聞朝刊
ローハイドの三人 帰米

 テレビの人気番組「ローハイド」の主人公、エリック・フレミング、クリント・イーストウッド、ポール・ブラインガーの三人が10日間の滞在日程を終えて3日午後11時59分発のパン・アメリカン機で帰米した。深夜の出発と折からの雨のため見送りのファンもわずか50人。7千人の子供ファンで空港始まって以来の歓迎を受けた一行にはさびしい感じだった。
 
週刊女性自身 昭和37年(1962年) 3月12日号 グラフ記事
真心をお土産に ローハイドを追った十日間

「日本の風景が美しい――ということは、前に日本へ来たジェスやモーガン警部からよく聞かされました。しかし、私たちはもっと素晴らしいみやげ話を持ち帰れます。――それは、日本のみなさんの、美しい“いたわりの心”なのです」
――帰国を前にして エリック・フレミング

「曲がりくねって、まるで私の歩んできた人生のようだ」。春浅い京の織宝苑(※現「流響院」)、その木の下道にただずんで・・・

 三人の行くところ、かならず笑い声があった。どんなに疲れてイライラしている時にでも・・・。“洗練されたユーモア” ――このとうとい教訓を残して三人は去った。(一行の関西行きに随行した本誌・湯川記者のメモから)そのユーモアのいくつかを、ここに録音すると・・・

【東京の宿舎・パレスホテルで】
――お料理が上手だそうですね?
ウィッシュボン「(すまして)もちろんさ。特に缶詰をあたためる料理がね」

【箱根・仙石原で】
――ツイストを踊れますか?
フェーバー「腰をひねりながら踊るやつだろ?あれはね、昔のカウボーイの歩き方なのさ」

【京都・都ホテルで】
――着物はいかがですか?
ロディ「(羽織の紐を引っ張りながら)これは日本のネクタイなのかね?」

――どうして頭が禿げたのですか?
ウィッシュボン「(頭をなでながら)ヒゲを伸ばすのに精力をつぎこんでしまって、頭の毛にまでまわらなかったのです」
 
週刊明星 昭和37年(1962年)3月25日号 グラフ記事
名ごりおしい東京


日本での最後の日に17代目中村勘三郎[1909-1988](写真左)の歌舞伎見物へ出かけたブラインガーは終演後に勘三郎の楽屋を訪問。居合わせた当時6歳の5代目中村勘九郎少年(18代目中村勘三郎[1955-2012]・写真中央)とも対面。

文京区の椿山荘で開かれたテレビ局主催のお別れパーティー。テーブルの左手前から時計回りにイーストウッド、女優の久保菜穂子、佐久間良子、フレミング、一人おいてブラインガー。

 一行は、3月3日、買い物や観劇に思い思いの1日を楽しみ、その日の深夜、羽田発のPAA機で帰国した。
 10日間の日本滞在を終えて、夜ふけの羽田空港に立った3人は、さすがに感慨無量のおももち。「私たちは日本にいる間、たくさんのファンから受けた好意ある歓迎を決して忘れないでしょう。アリガトウ。みなさん!」
 日本人形やキャノンカメラなど、夫人や両親へのおみやげをぶら下げて、3人は機上の人となった。

「私たちは長年、日本を訪ねたいと思い続けていました。そして日本は私たちの思っていた通り、夢のような国でした。暖かい思い出を胸に、私たちは故国へ帰ります。サヨナラ、サヨナラ・・・」
 

 
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少年時代から芸能活動をされていた関西のラジオDJ・ヒロ寺平さんが当時、寿屋の子供用ジュースのCMキャラクターを務めていた関係でローハイド3人組が来日した際の記者会見に同席されたそうで、御本人のホームページ・HIRO T'S DIARY:「2005年3月4日(金曜日)」の日記に寺平さんが少年カウボーイ姿で3人と一緒に写っている記者会見時の貴重な写真2枚と3人の直筆サイン入り写真がUPされています。来日6日目の大阪グランドホテルでの記者会見のようにも見えるのですが寺平さんの写真の柱時計は4時半~4時40分あたりを指しているようです。来日6日目は大阪駅に午後4時頃に着いた後に1時間ほど列車内に缶詰めにされたとの記事があり、一行の大阪グランドホテル着が早くても午後5時だとすると時間が合わないので寺平さんが同席されたのは翌日の来日7日目のMBS毎日放送スタジオの方で開かれた記者会見かもしれません(毎日放送スタジオで記者会見があったという情報は見つかりませんが大阪グランドホテルと思われる場所での記者会見の背景に貼られた幕と寺平さんの写真の背景の幕が違うので大阪で2回の記者会見が開かれた可能性もあり)。

【余談】ブラインガーの結婚

 来日期間中、独り身である事を自虐ネタにしていたポール・ブラインガー(44歳)だが、帰国直後の1962年3月、私生活に大きな変化が訪れる。

 ウェスト・ハリウッドのメルローズ・アベニュー8451にあったコールボード劇場という小さな劇場に昔から出演していたブラインガーは二人の支配人とも親しかった事から、「ローハイド」の撮影で忙しい中でも照明係や大工仕事などの裏方の手伝いに来てはその小規模な劇場を助けていた(右の画像は1984年の映画「ボディダブル」より、撮影に使われたコールボード劇場の外観。現在は取り壊し済み)。

 その時は「遠い鐘」という舞台のリハーサル期間中で、「ローハイド」で有名な現役TVスターのブラインガーが照明係をしている事に途中で気づいた若い俳優が驚いて出演女優のシャーリー・タルボット(33歳)の楽屋に来て興奮気味にそれを伝えたが、シャーリーはブラインガーの事を知らなかった。
(上の右画像はブラインガーと出会う13年前の20歳頃のシャーリー・タルボットが歯磨き粉の広告モデルを務めた1949年の雑誌広告。美人コンテストで優勝した事なども書かれている)

 シャーリーとブラインガーは次第に親しくなり、公演が終了する前にブラインガーがシャーリーの電話番号を聞き出す事に成功はしたものの、当時のシャーリーには東海岸に残して来た恋人がいた。その後、二人はデートに出かけたりキスしたり結婚話が出たり喧嘩したりシャーリーがハリウッドを去って実家に帰ったり心配したブラインガーが電報を何度も打ったり3ヶ月後にハリウッドへ戻って来たシャーリーを車で出迎えに来たブラインガーが涙を浮かべたりなどモロモロの男女間の紆余曲折があったのち、ある日、ブラインガーはフレミングやイーストウッドと共にニューメキシコ州の博覧会のイベントに招待された。

 シャーリーに一緒に来ないかと誘うとOKの返事。シャーリーはついでにニューメキシコ州在住のブラインガーの両親とも対面。博覧会での仕事を終えたブラインガーはシャーリーのリクエストに応えて観覧車デートへ。二人の乗った観覧車が一番てっぺんに来たところでブラインガーが観覧車を揺らし始め、ビビったシャーリーはそれをやめるように懇願したがブラインガーは観覧車を揺らし続けた。「どうすれば揺らすのをやめてくれるの?」「私と結婚すると言ってくれたらやめます」
 二人は出会って9ヶ月後の1962年12月に結婚。その後、二人の子宝(長男ポール・ブラインガー3世と次男マーク)にも恵まれ、結婚生活はブラインガーが亡くなる1995年まで続いた。

【参考:西部劇サイトのブランインガーの記事
【おまけ】ロケ地でローハイド祭り

下のカラー画像は、ローハイドの撮影初期にロケ地として使われ、ブラインガーの故郷でもあるニューメキシコ州クワイ郡トゥクムカリで2016年4月15~16日に開催されたお祭りイベント『トゥクムカリ・ローハイド・デイズ』に招待されたゲストの面々。「ロディ」「ウィッシュボーン」「ピート」の子供達が顔を揃えた珍しい写真。
左よりブラインガーの妻シャーリー・ブラインガー未亡人
次男のマーク・ブラインガー
シェブ・ウーリー(ピート役)の娘クリスティ・ウーリー
ローハイドとは無関係な某カントリー歌手の息子、
クリント・イーストウッドの長女キンバー・イーストウッド(※母は「ローハイド」に女性スタント役などで出演していた女優のロクサーヌ・チュニス)。
背後の壁にはウーリーとブラインガーの写真(画像右)のポスターが貼られている。

『ローハイド・デイズ』は、ブラインガーの出身地トゥクムカリがローハイドのロケ地として使われた当時に地元でそれを祝うようなイベントは無かったのか?という地元ラジオ局に寄せられた質問がきっかけで、それなら今からロケ地として使われた事を記念&祝福しようと地元ラジオ局の女性DJカレン・アラルコンが企画したお祭りで、2016年4月に第1回が開催。翌年以降も毎年春頃に3日間の日程で開催され(2023年は6月開催)、祭り当日は町に荷馬車の売店群が並び、西部劇のコスプレをした観光客がトゥクムカリを訪れて様々なイベントが行われるとのこと。

イベントの内容は「ローハイド」の無料上映会、カントリー歌手たちのコンサート、タレント・ショー、ガンファイト・ショー、投げ縄ショー、集団銃撃戦ショー、ロデオ・ショー、トゥクムカリ映画祭(応募作の中から各賞受賞作を上映)、ミス・ローハイド・コンテスト、射撃コンテスト、カップルダンスコンテスト、子供のホビーホース(おもちゃの木馬)レース、牛・馬・カウボーイなどがモデルの?写真コンテスト、鍛冶屋コンテストとメタルアートのオークション、コマンチェロ杯争奪・魚釣りダービー、ゴルフトーナメント、5kmと10kmマラソン、キルト展、トゥクムカリ歴史博物館で芸術品や工芸品の展示、ルート66でキャトルドライブの再現(牛の集団と荷馬車の行進やカウボーイ・カウガール・西部開拓時代の紳士淑女などのコスプレをした参加者によるパレード)、ルート66でクラシックカーとクラシックバイクのパレード&ショーなど。
『ローハイド・デイズ』関連リンク
(公式サイト)2023年は6月16日~18日に開催予定
(ニュース記事:アルバカーキ・ジャーナル紙 [2017/4/30])※アーカイブ

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